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ウクライナ:1658年、モスクワ国の侵略を糾弾する世界に向けた声明

更新日:2022年4月27日

1658年、ウクライナでは前年に成立したイワーン・ヴィホーウシケィイ(Іван Виговський, 1608頃/1616[1]–64)率いる新政権がポーランド王国、リトアニア大公国と和睦し、ルーシ大公国として三国民の共和国を形成する合意を締んだ。

1654年にウクライナと対ポーランド戦線を築く同盟を結びながら1656年にはポーランドと単独講和を結んでいたモスクワ国は、ウクライナとポーランド、リトアニアの融和に不満を抱き、自国の存続が脅かされているとしてヴィホーウシケィイ政権の転覆を試み始めた。

それは、ウクライナ国内に反政府武装勢力を組織して武器を与えて支援し、「政府の人間は敵のポーランド人の手先である」といった類のあらゆる偽情報で混乱させ、それらの試みが失敗するや、「ウクライナの福利のため」と称して大軍を送り込み[2]、軍事力の前に屈服させようという試みであった。

だが、《武士》の国ウクライナは、攻め寄せる20万[3]の敵軍を前に怯むことなく抗戦し、同時に世界に向けて自らの立場を説明し、支援を募った。


以下は、モスクワ人の「狡猾な」(と文章内で表現される)手口を糾弾するウクライナ政府が、欧州各国に向けて発した声明である。

著者の署名はないが、ヴィホーウシケィイ政権の宰相ユーリイ・ネメィーレィチ(Юрій Немирич, 1612–59)の筆跡であると断定されている(同じ時期に書かれたヨーハン・アドルフ公宛の書簡[4]と同じ筆跡)。

彼は、ライデンやアムステルダム、ケンブリッジ、オックスフォード、ソルボンヌ大学で学を修めた、その当時ウクライナきっての博識の人。


この声明は、今日のウクライナ人の民族性なるものを基礎づけた近世ウクライナ人の発想法や価値観を明らかにした史料として知られる[5]



ザポローッジャ軍の名において諸外国君主に対しモスクワとの断交を説明する声明

1658年10月付〔私訳[6]


Serenissimis, Celsissimis, Illustrissimis, Excellentissimis, Perillustribus, Illustribus, Generosis, Spectabilibus Dominis, Regibus, Electoribus, Principibus, Marchionibus, Rebus publicis, Comitibus, Baronibus, Nobilibus, Civitatibus etc. etc. […]

玲瓏至極、高潔無比、光輝燦然、卓爾不群にして、燦めかしき、輝かしき、徳量寛大たる、いつくしき君、王、選帝侯、公、辺境伯、共和国、伯爵、男爵、貴顕、市民、等々の方々に御書奉る。


我れら、全ザポローッジャ軍、神と全世界の御前に奉り、我れらが誠実にして公正なるこの声明により宣告し証しを立て奉らん。即ち、ポーランドとしたる我れらが戦さのその訳は、如何なる余の原因にもあらず、如何なる余の的にも目当てにもあらで、ただ聖なる東方教会と、はた我れら、不朽の記憶のうちに眠る我れらが公〔Duce[7]〕ボフダーン・フメリネィーツィケィイ〔Богдан Хмельницький, 1595 [96][8]–1657〕と、我らが宰相〔Cancellario〕イワーン・ヴィホーウシケィイともども、愛を懐きたる我れらが父祖の自由〔権利〕〔avitæ libertatis nostræ〕を守らんがためにほかならず。


我れらが私の事ども、神の光栄と公共の福祉の事由に比ぶれば、遙かに遠きものなり。それゆえ、韃靼と、いとも玲瓏なるスウェーデン女王クリスティーナ陛下と、のちまたいとも玲瓏なるスウェーデン王カール・グスタフ陛下と友誼を結べり。我れら彼らに対し不変の信義を守れり。ポーランド人にさえ我れら合意を破る切っ掛けを絶えて得ささざりしが、斯く言うも聖なる我れらが信義に基づきて、合意と盟約守りたればなり。


我れらモスクワ大公Magni Ducis Moscoviæの庇護を受けたるも余の理由ならず、偏に、武器の力で結ばれ一度ならず流されたる血によりて神の引きありて復されたる合意に基づきて、我れら、我れらが諸権を我れらと我れらが末葉がために守らんがためなり。


而して我れらが軍は水下軍の権将軍[9]præfecto〕〔イワーン・〕ゾロタレーンコ〔Іван Золотаренко, 1655没〕諸共、モスクワ大公が誓言と固言を信じ、初めリトアニアのモスクワ大公への併合に立ち会えり。我れらが信仰が相結びたる縁と、自由にして自ら為したる我れらが臣従liberam ac spontaneam subiectionem nostramに全幅の信を置きて、我れら期待せしは、彼の者〔モスクワ大公〕、我れらに対し善徳と友誼、人の心を示すことなりて、我れらに対し衷心の信を深め、我れらが自由libertatibusを侵さず、己が誓言に従いて振る舞うことなりき。然るに(嗚呼、徒なる希み哉)かの仁徳にして敬虔なることこのうえなきいとも慈悲深きモスクワ国の国家の官人と導き手ら企てたるは、ポーランド人とモスクワ人Moscosの和議の第一年目に、ポーランドの王座を手にする望みを胸に[10]、我れらを虐げ併合する同意を成すことなりけり。モスクワ人〔Moscovitæ〕ら、ポーランド人に契りたるは、我れら、我れらがスウェーデンと結びたる合意を破りて大公が意志により彼ら〔スウェーデン人〕に対して戦さを起こすべしと。彼の者らが謀りの目論見たるは、スウェーデン人との戦さに駆り出されたる我らを虐げ併合するは容易なるべしと、然るにボグダーン[11]・フメリネィーツィケィイ、我れらが宰相ともども、大公に合意せざるのみにあらず、リヴォニアにおけるスウェーデン人との戦さを起こすことの何故要らざるか、彼の者に〔モスクワの大膳職〕ヴァシーリイ・ペトローヴィチ・キーキンを通じて数知れぬ証しを立てり。


我れらが手に上述の議事の写しありて、疑いなく真正なるが、而して己が主君〔principi[12]〕のこの不義なる行いと曲事の徴を、この悪業について其に傾きたる公〔Principem[13]〕と総主教聖下〔その両人〕の同意なしに国家の官人の為すとは思いもよらぬことなれ。而して、己が言葉に忠義なる我れら、モスクワ人〔Moscorum〕の試みを挫くべく努めたり。


乃ち、リヴォニアにて我れらが同志にして心友たるいとも玲瓏なるスウェーデン王陛下に対して起こされたる戦さは、如何なる理由もあらで、ただ一つの根拠、即ち我れらとの旧交を育むことが、いとも玲瓏なるスウェーデン王陛下の御意に適いたることの下にあれば、〔その戦さは〕かの悪業第一の公然たる証拠なるべし。なんとなれば、干戈に御心乱されたるスウェーデン王は、我れらが働きを助くること能わざりければ。この故に、玲瓏なるスウェーデン王陛下が許へ遣わしたる我国が大使、モスクワ国の通行を二度も拒否されたる貴顕なるダニエル・オリヴェンベルク・デ・グレッカーニ〔Daniel Oliveberg de Greccani, 生没年不詳[14]〕へ、我れらが大将軍〔Generalissimum〕、かつてその身内たるダネィーロ・ヴィホーウシケィイ殿率いし軍を統べて合力せり。彼、軍を率いてルブリンまで向かい、騙りのモスクワ人〔Moscovitarum〕の邪曲を見張りたり。


我れらが疑義の無根ならざるを証すは、近頃我国が都キーウに築かれし城塞と、我れらを、かつて長きにわたりポーランドで味わいし囚われ人の境遇に留め置くべくそこに配されし数千のモスクワ兵〔millium Moscorum〕なれ。斯くも熱心にモスクワ人Moscovitæの心砕きたるは、我れらを己が許へ併合し、奴隷の同盟者とすることなり。


充分なる証拠にして明らかなるためしは白ルーシの地〔Alba Russia〕にもありて、華胄家世の人々、己が意志によりてモスクワ国との国ざかいの地に出でしが、ほぼ二百家族、力と攻撃とによりてモスクワ国へ拉致されり。そのとき、マヒリョーウが町衆と白ルーシの地の余の都市の住人、諸々の都市と村々の人々、徒に大公が慈悲に縋りて、その数二万人以上、あえなく追放されモスクワの収容所へ送られり。スタルィー・ブィーハウ〔Veteri Bychovia〕とボリステネース川[15]Boristenem〕流域の余の諸都市にて囚われ彼の者らの手に委ねられし捕虜については言うに及ばず、なんとなれば則ちボリステネース川〔Boristhenes〕全域が軍に囲われていたればなり。これを為す能わざれば、彼の者ら己が攻撃を別の仕方にて為しおり。


不朽の記憶のうちに眠るボフダーン・フメリネィーツィケィイ、ザポローッジャ軍大将軍たる公〔Generalissimi Exercitus Zaporoviani Ducis〕亡きあと、彼の者ら思案するは、我れらが小ルーシと白ルーシの地〔Minor et Alba Russia nostra〕はザポローッジャ軍諸共やがて亡ぶべけれと。かかるがゆえに我国の使節、モスクワ国に長きにわたり留め置かれ、愚弄され、我れらが請願に対し我れら受け取りたるは冷ややかなる答えなりき。やがてグリゴーリイ・ロモダーノフスキイ公〔Григорий Григорович Ромодановский, 1682没〕を将とせるモスクワ軍、援軍がふりして救援に差し向けられたるが、ペレヤースラウにまで進軍し、大将軍に従うを欲さざりき。


先のザポローッジャ軍大宰相〔ex Cancellario Magno〕イワーン・ヴィホーウシケィイ、のちに統治を承りて大将軍に選出されしとき、ロモダーノフスキイはまずこの公儀の称号を認めず、彼に続いて大公もまた同じことをし給えり。のち闘諍の種をばさらに撒き散らし、〔ヴィホーウシケィイは〕ポーランドの士族なるによってザポローッジャ軍よりポーランド人に尽くすべしと〔曰えり〕。


己が考え一つで戦さし幾多の勝ち軍に鼓舞されし戦士の性は嗷議〔自分勝手な無法〕に傾くとて、其は功名心とともにボリステネース川八十瀬の水下に住まいせるコサックの一党をして謀叛せしめ、己が将〔Ducem[16]〕に某バラバーシュ〔Яків Барабаш, 1658没〕を選ばしめり。彼らが使いをして大公が許へ届けられし書簡に、かのコサックども只今選ばれたる全ザポローッジャ軍の大将軍を数多の罪業にて謗れり。かの使いをして彼の者らまた勧めて促すに、上位軍権を全国庫諸共モスクワへ移譲し、モスクワより我国へ太守〔Gubernatores〕を送られたしと。


褒めらるべきこの事起こりしは、かの使いの者ら三十騎のコサックを伴いてポルターワ連隊の地を通りしとき、ポルターワ連隊長〔マルティーン・〕プシュカール〔Мартин Пушкар, 1598–1658〕、内々に謀叛を企てしが、その一統ともども彼の者らを迎えさらにコサック七騎を与えしところ、叛徒の使いに捕らわれてモスクワ国との国ざかいまで護送されてのち解き放たれたると謂えり。使いの者ら申し開くに、プシュカールは彼の者らを捕らえんと欲するも能わざりきと。


このことコールスニにて持たれし惣評議(ここにてプシュカールは将軍〔generali〕に誓約せる)にて知りたるうえは、大将軍、大公へ使いに持たせ送りし御書に記せしは、かの叛徒ら信じ召さるべからず、なんとなれば軍はすでにして一度ならずその忠義を大公に誓いたるによりて、また叛徒が使いの者ら捕らえてザポローッジャ軍へ返されたしと。然るに仕儀は我が方にとりて上首尾に運びしは、我れらが使い、謀叛の輩を追い越して着到したることにて、彼の者ら〔叛徒の使い〕モスクワ〔Moscuam〕へ到りしのちは己が行方をくらませたり。我れらが使いに問われしモスクワの書記官[17]アルマース〔Almasius[18]〕は彼の者らすでに到れるを認めず、我れらと時を同じくせる彼の者らの内密の市中滞在、我れらに明らかにはならざりき。然るにこのことモスクワ人〔Moscorum〕の背信を減ずること絶えてなかりき。我れらの派遣せる使いの者らは回答を得ず、モスクワ総主教は大将軍に対しその御書への回答を下さることあらざりき。むしろ、謀叛の輩は大公よりバラバーシュに渡すべく報奨と勅書、不法なること明らかなるザポローッジャ軍に対する特権〔privilegia〕を得させ給えり。


このとき、プティーウリにおいて廷臣ニコライ・アレクサンドロヴィチ・スーシン〔Susin〕は事態が悪しき方へ向かいつつあり、自由の民〔liberam gentem〕と協議すること適当ならざるを見て取れり。而して彼の者、叛徒の使いを捕らえ、大公の合意を得れば我らに引き渡さんと約せり。


このとき、プシュカールは、大将軍に断らず、毎日の如く密かにモスクワ人〔Moscoviticos〕の使節を応接し、送り返しおれり。大将軍が許へ参るべく求めし御書七通、彼の者へ送れども、拒まれり。遂には彼の者へ向け大将軍の差し向けたる軍勢の迫り来るや、この者ら如何なる敵意も持たざりしに、彼の者俄に襲い、ある者は討ち取られ、ある者は追われたり。


大公が特命大使、砲術大将にしてモスクワ国の元老、ボグダーン・マトヴェーエヴィチ・ヒトロヴォー〔Богдан Матвеевич Хитрово, 1615–80〕が着到はこれとほぼ時を同じくせり。大将軍の同意なく彼の者は全連隊へ下知状を送り、ペレヤースラウの全軍評定へ出頭すべく相求めたり。長老衆と協議のうえ、彼の者、グリゴーリイ・ロモダーノフスキイをばモスクワ国へ送り、大公が命により全軍評定の前に大将軍の名代を務むることを告げり。

大将軍、己が職と権限がザポローッジャ軍の自由〔libertatibus〕諸共蔑ろにされたるは、悪しき徴候と見たり。然るに彼は公共の福祉に鑑み評定へ現れり。


そこで大将軍に告げられたるは、モスクワ軍将〔Ducem Exercitus Moscovitici〕グリゴーリイ・ロモダーノフスキイ、二日にわたりプシュカールの側にいて我れら全員の引き渡しを協議したることなりき。彼の権限において謀叛人を捕縛し、囚えて上述の評議へ送致することも得べかりけれ。爾後の行動のために人数を集めつつ、彼の者は八日を待ったるも、プシュカールと同意に至らざりき。プシュカールが許へ八連隊とボグダーン[19]〔・ヒトロヴォー〕から使者が送られ、己が企てより手を引き、市民の信義を信じて評定に参り、批判を提出すべしと求められしが、彼の者答えて曰く、配下の兵を率いずば出頭すること能わずと。一方では、彼の者幾つか百人隊を遣わしけるが、其はボグダーンに大いなる敬意をもって迎えられ、存分に褒美を取らされ帰郷せり。


そのとき、ボグダーンが側近らとともに大将軍に命じたるは、彼の者〔ヒトロヴォー〕直にプシュカールへ向かい、説得かなわぬ場合は力によりて服従せしむべし、もしただ大将軍の斯かるが如き二条を約せなばと。即ち、

  1. 聖なる福音経によりて大公へ誓約すべきこと。

  2. 八日間のうちに軍大老衆〔præcipuis〕幾人かを連れてモスクワへ上洛し、大公と協議すべきこと。

大将軍、第一条にも第二条にも合意せり。斯かるが後、彼は評議を解散してプシュカールへ向かわせたる四連隊には帰陣を命じたる。


ほぼ同時に上述のバラバーシュが使いの者ら解き放たれけり。彼の者ら、プシュカールに加勢して大公より授かりし誘惑の御書と特権を提示せり。(上述のバラバーシュは神の恩恵と大将軍の才覚〔prudentia〕によりザポローッジャより呼び出されしが、己が罪を認め大将軍に許しを求めたるによって、寛大に敬意を以て許され罰を免れおりけり)。


謀叛を起こししコサックの一団を手元に置きたるボグダーンは、いまだ約したる儀を果たさず、然るにプシュカールをして誓約せしめ、許しを約しけり。このことから外部よりモスクワ人〔Moscorum〕の火付けしたる火災が我国に起こりたり。所々で叛徒により罪なき人々が殺され、モスクワ人〔Moscis〕は遠巻きにその様を見廻わしおれり。そのなかに大将軍が妹婿、瑕瑾なく和を尊びし〔イワーン・〕ボグレーウシケィイもまた自宅にて妻女〔テテャーナ・ヴィホーウシカ〕と家人八人諸共殺害されり。斯かる悪業、大公へ奏されしに、彼はただ黙しおれり。


然るにプシュカール、犯したる仕儀に飽き足らず、己が連隊を彼の全地より集めし謀叛のコサック軍と合わせ、ボリステネース川に対して進軍せるが、モスクワ人〔Moschorum〕の手に渡すこと約せし大将軍とザポローッジャ軍の全大老衆〔præcipuis〕を捕らえんとせり。


モスクワ人〔Moschos〕に援軍を呼び掛けつつ、大将軍は徒に答えを待ちたるが、すでに己の戦力を別の仕方で数え直すを余儀なくされり。而して彼は援軍にカラチ・ベイ汗を将とする韃靼を呼び、彼らを召集し得たコサックと傭兵軍に合力せしめ、蜂起軍に向けて出陣せり。彼は彼の者らをポルターワから追い落としたるが、望みしはただ一つ、これによりて擾乱を無血にて治めることのみなりき。このことゆえ彼は一度ならずプシュカールへ使者を立て、全員に恩赦を提案し恩愛を約せり。


恐らく、プシュカールと側近があらゆる面から理解せるは、今や彼の者ら和議に向かい其を約さざるを得べからざることなりけれ。然るに狡猾に欺きつつ、プシュカールはまさに至聖なる三位一体の祝日の深夜、眠気と酔いに負けたる我れらが軍を撃ち破るは容易なりと断じて我れらを襲いたるに、彼の者は何よりモスクワの裏切り者ら〔proditoribus Moschis〕と、我れらが軍内におりし斯様なる〔裏切り〕者どもに唆されたるが、斯かる者らは我れらが方に数多ありき。而して陣中に入りて彼の者、前軍の大部分を手中に収めたり。然るに日が暮れるや、大将軍は麾下の傭兵軍と韃靼を率いて抗戦を為し、蜂起軍を撃ち破り、まさにその将ともども全滅せしめたり。ただバラバーシュが僅かなる手勢を連れて逃げ遂せり。この戦さに斃れたる者には、ルブネィーとハーデャチにて蜂起せる者らに害されし者らも上ぐるべし。その数五万に達したるが、これぞモスクワ人が悪業の果実なれfructus sceleris Moschorum〕。

(左上)イワーン・ヴィホーウシケィイ

(右上)マルティーン・プシュカール、(その下)ポルターワ連隊長権標(箭羽錘)

(地図)政府軍 ВИГОВСЬКИЙ: ヴィホーウシケィイ勢(チヘィレィーン)、ТАТАРИ: クリミア・タタール勢、ГУЛЯНИЦЬКИЙ: フリャネィーツィケィイ勢(ニージン連隊)、БОГУН: ボフーン勢

反政府軍 ПУШКАР: プシュカール勢(ポルターワ連隊)、БАРАБАШ: バラバーシュ勢

ポルターワ合戦史博物館の展示


斯くの如き仕儀に至り、今や我れらがルーシの地〔Russia nostra〕に平和を望み得べかりしが、俄に三週のあいだ行方を晦ませしグリゴーリイ・ロモダーノフスキイ、大公が軍を率いて我れらが領土に入れり。己が着到、大将軍に知らせて曰く、擾乱平定を助けんとてコサックの援軍に参りたると。これに答えて曰く、すでにしてすべからく平定せり、而して手勢を率いて帰らるべし、再び我れらに叛きしバラバーシュは、鎖につなぎて大将軍へ引き渡されたしと。ロモダーノフスキイ、答えて曰く、撤収もバラバーシュの大将軍への引き渡しも、大公からの格別の下知なくば為し得ず、詮ずるところ、大将軍は少き人数で話し合うべく参られたしと。


この間、シェレメート〔Василий Борисович Шереметев, 1622–82〕、大公が軍将〔Seremet Gneralis Magni Ducis〕は、六千の手勢率いて別方面よりキーウに至り、そのあとには密かに別のモスクワ軍〔copiæ Moschorum〕が続きおりしが、その数五万に達しけり。彼の者、友誼を粧いて将軍を招き、話し合いに応ずべしと言いけるが、ひたすら企図したるは彼を大老衆の何某か諸共捕らうることなりけれ。大将軍がこの会談を拒否するや、シェレメート公然と宣いて曰く、討ち死にしたるプシュカールは最良にして最も信に足る大公が下僕なりしかど、大将軍はモスクワ人の敵なれ〔Generalissimum esse inimicum Moschis〕と。シェレメートがあらゆる害を大将軍と全ザポローッジャ軍に為さんと企ておりしことは、我れらがうちに内応者を探りおりしモスクワ人〔Moschowitarum〕数名の知らせによりても確かめられたり。


同じことを、ロモダーノフスキイ勢から内応せる者二人、狡猾なる密約を暴きて裏付けたり。一方、ロモダーノフスキイもまた充分な働きを見せたり。彼の者、我れらに与したる百人長数人を絞首刑に処し、二度にわたり蜂起せるバラバーシュにザポローッジャ軍大将軍の称号を、大公から下されし権標ともども得させにけり。我れらに与せるプレィルーケィ連隊長から称号を剝奪し、余の者に得させけり[20]。バラバーシュが将軍下知状を各地に送り、新たなる蜂起を呼び掛けり。遂には、彼の者は公然と敵対行動に出でたり。即ち、我国がヴェープレィク[21]の町一帯を蹂躙し、かの地の住人数多、虜囚とせる。


斯くして明らかにされたるは、我が国に対し第一に国うちの市民が戦さで以て、次いで彼ら〔モスクワ人〕が武器で以て奴隷の軛を我方の如何なる瑕疵なくして準備せるその怜悧狡猾なれ。其を除かんがため、我らが罪あらざることを公判に付して神の引きを希いつつ、法に基づく守りを始め、隣人たちの助けを求め、自由libertateがため戦うを余儀なくされり。而して我れらに如何なる瑕疵もなく、我れらは今し起こりたるこの戦さの原因にはあらざりて、我れら大公に忠実たるを欲したるも、本意ならず武器を手にせるなり。



【解説】

原文ラテン語[22](ただし、上記は第1–4段落と最終段落のみラテン語からの翻訳、それ以外は現代ウクライナ語訳[23]からの重訳[24])。参照したのはスウェーデン国立文書館所蔵の書簡で、スウェーデン王カール10世グスタフに送られたものと思われる。原文は段落分けが一つしかないが(ヴィホーウシケィイ将軍選出の段)、現代ウクライナ語訳の段落分けを参考に段落を設けた。太字強調は翻訳者。

翻訳では「モスクワ人」としたが、原文ではモスクワ人(Moscovita, Moschovita)とモスコス人(Mosci, Moschi)が併用されている。モスコス人(Μόσχοι)というのは古代コーカサス(今日のジョージア辺り)に居住していた民族の名称である。古典古代時代の文献に言及される民族名の使用は、このテクストにルネサンス的彩りを与えている(ルーシ人をルテニア人、ロクソラーニア人と呼ぶ類の手法)。この時代にウクライナでも大いに流行ったパラドックスやオクシモロン、アレゴリーを多用したマニエリスム、バロック的文体と比べると大分おとなしいが、それでもモスクワの「裏切り者」とウクライナ国内の「裏切り者」の相思相愛の関係を描く辺りには17世紀ウクライナ文学らしいレトリックが表れている。


ロシア語では《敬虔公》と響くアンドレイ・ボゴリュープスキイ公(Андрей Юрьевич Боголюбский, 1174没)が《占領の意図なく》キーウの都を攻撃し、劫略し、破壊して去って[25]以来、ウクライナ人は常に破壊的な北東の隣国との緊張関係のなかに生きてきた。1654年には両者間に初めて友好的な合意が結ばれたが、声明に記されているようなモスクワ大公の齎した《落胆》により、その関係は長続きしなかった。


この声明では、1658年に起こったウクライナ(当時のウクライナ人は好んでこの名称を用いたが、正式な国号はザポローッジャ軍、歴史家のあいだではウクライナのコサック国家や将軍国家と呼ばれる)とモスクワ国家の戦争について、当時のウクライナ政府が自国の立場を説明している。

彼らの自由と権利が彼らの血と努力によって勝ち取られたものであること、モスクワへの臣従が降伏の結果でもなければ強いられたのでもなく、飽くまで自らの自由意志によって行ったものであるという点が強調される。


書かれたことは、当時のヨーロッパ世界で常識であった封建主義的な相互契約――いわゆる《御恩と奉公》――に基づく価値観を前提に理解する必要がある。

すなわち、甲乙双方が互いに対してある義務を負う合意を結び、甲が乙に負う義務を果たさなかった場合、乙も甲に対する義務から解放されるという常識である[26]

ここでは、書簡冒頭にあるように、モスクワ大公がウクライナ人への約束を果たさず、あまつさえ、共通の交戦国であったポーランドと単独講和を結び、ウクライナを敵の手に委ねようとしたこと(1656年のヴィルニュス和議)が批判されている。


続いて、1658年にモスクワがウクライナの不満分子を焚き付け叛乱を起こさせ政府を転覆させようとしたこと、合意に反して軍政権を持つ太守をウクライナ各地に派遣してウクライナの主権を奪おうとしたこと、ウクライナ人を二つに割って相争わせたこと、それが失敗すると自らの軍を送ってウクライナを侵略したことを仁義にもとる背信行為として糾弾している。


ウクライナは、モスクワと合意を結ぶ1654年以前からスウェーデンと友好関係を築いており、モスクワがヴィルニュス和議によってウクライナを、ウクライナが交戦していたポーランドを助けるためにスウェーデンと戦わせようとしたことが問題となった。

これに反発したフメリネィーツィケィイ将軍は、1656年のラドノート合意でスウェーデン、リトアニア、ブランデンブルク=プロイセン、トランシルヴァニアと対ポーランド同盟を結んだ。

さらに1657年には、フメリネィーツィケィイ将軍の遺志を継いだヴィホーウシケィイ将軍は長老衆のイワーン・コワレーウシケィイ、イワーン・ボフーン、ユーリイ・ネメィーレィチを使節としてスウェーデンとコールスニ合意を締結し、国際的な立場を強めた。この合意でスウェーデンはウクライナの独立を承認した。

その後、1658年のハーデャチ合意において、ウクライナ人はポーランドとリトアニアにもウクライナが自立した一つの国家であることを認めさせた。


さて、この御書は主としてヨーロッパ諸国に向けて書かれていることを考えると、著者らにとって、ここに書かれたこと(ここに示された発想法や価値観)はヨーロッパの隣人たちに共感されるべきこととして考えられているということがわかる。

このラテン文には、隣人ポーランドとの関係が複雑化した16世紀以来、常に自らの立場(自らの正当性)の説明を求められその力を試されてきた近世ウクライナ人の自己説明力がいよいよ発揮されている。

ことばの力は、彼らがヨーロッパのまともな文明のなかで育ってきたことの証である(ヨーロッパ以外まともでないという意味ではない)。

この力を培ってこなかった国は、何百年経っても言うこと尽く子供だましの妄想の域を出ず、言葉に詰まって足はばたばた、腕を振り回すばかりの醜態を晒すことになるであろう。

だが我々は、かつてのウクライナ人が書いた文書を読めば現代ウクライナ人のアイデンティティーが根ざしているものが何であるか、確かめることができるのである。


自分の正義を自分の妄想の言葉で主張しても、そのようなトートロジーにうなづくのは世界でただ自分ひとりであるか、同語反復がわからないほど無知な者だけである。

引き換え、この近世ウクライナ人の文章は、まず前提条件を説明し、続いて状況を説明し、そのうえで自らの立場の正当性を主張する。

この誰にでも理解可能な説得術により、ウクライナはクリミア、ポーランド、リトアニア、ドイツ、ワラキア、セルビアなどから援軍を取り付け、強大なモスクワ軍に立ち向かうことができたのである。


---- [1] Іржицький В., Тітаренко Н. Родина Виговських в історії Української козацької держави // Наукові записки [Інституту політичних і етнонаціональних досліджень ім. І. Ф. Кураса НАН України]. 2008. Вип. 39. С. 55 [http://nbuv.gov.ua/UJRN/Nzipiend_2008_39_7] (2021年12月12日閲覧). [2] 「ツァーリは平和を欲しているというロシア側の使節たち〔グリゴーリイ・ブルガーコフとフィールス・バイバコーフ〕の偽りの説得に対し、〔ニージン及びコールスニ連隊長イワーン・〕フリャネィーツィケィイはそれを行動によって証し、ロシア軍をウクライナから撤退させることを提案した。その回答として彼が受け取ったのは、これらの軍はウクライナへその福利のためにやってきたのだ(!!!)という欺瞞に満ちた宣言であった。フリャネィーツィケィイは外交儀礼から外れた仕方で使節たちを悪罵し、彼らとの会談はここに決裂した。〔…〕」(Мицик Ю. Конотопська битва 1659 року // Конотопська битва 1659 року. Збірка наукових праць. Київ: Центр східноєвропейських досліджень, 1996. С. 17–18)。 [3] 歴史家ユーリイ・メィーツィクは、Мицик Ю. Іван Виговський // Володарі гетьманської булави. Історичні портрети. Київ: Варта, 1994. С 227では「10万」、Мицик Ю. Конотопська… С. 18では「その兵力は36万と見積もる者もあるが、実際には20万近くであった」と書いている。 [4] CXXVI. Письмо Юрія Немирича къ герцогу Адольфу Іоанну о необходимости замиренія съ поляками и шведской военной помощи Выговскому противъ Москвы, согласно союзному договору. –– Изъ лагеря при Богачкѣ, 11/21 октября 1658 г. // Архивъ ЮЗР. Ч. III. Т. VI. С. 361–362. [5] Архивъ ЮЗРは「複写」としているが、Тисяча років... Т. 3. Кн. 1. С. 330によれば、複写ではなく「原本」。 [6] 近所のならず者に邪魔されて完全なネイティヴチェックを受けることができなかった。ひどい間違いはないと信じたいが、誤訳や間違った日本語の使い方があれば、ご教授いただければ幸いです。原本はインターネット上で見つかるはず。 [7] ラテン語原文で「公」および「軍将」を指すDuxという称号を用いている。フメリネィーツィケィイについては、ほかに彼を「光輝燦然たる公」と呼ぶ史料(Diarius drogi do woyska Zaporowskiego pana woiewody Bracławskiego, y p. podkomorzego Lwowskiego, chorążego Nowogrodzkiego, podczaszego Bracławskiego y p. Smiarowskiego, sekretarza, kommissarzow y kollegow iego, napisany przez p. podkomorzego Lwowskiego. Die prima jan. 1649 // Памятники, изданные Кіевскою коммиссіею для разбора древнихъ актовъ. Т. I. Кіевъ, 1898. С. 322)があるので、「公」の意味で用いていると解釈した。以下、〔 〕内斜体はラテン語原文からの引用。斜体でない場合は日本語への翻訳者による註。 [8] 当時のユリウス暦で1595年12月27日、すなわちグレゴリオ暦1596年1月6日生まれ。 [9] イワーン・ゾロタレーンコは、ベラルーシ方面の権将軍(наказний гетьман)に任ぜられた。 [10] ポーランド人はモスクワ大公に対し、当時のポーランド王ヤン2世カジミェシュ崩御のみぎりにはポーランドの玉座をモスクワ大公に譲る約束をした。当然、このようなことは起こり得るはずもなく、反故にされることが見え透いた空手形であったが、モスクワ人はポーランド人の外交術を見抜けず、我が手にポーランドの王権が転がり込むものと信じ込んだ。 [11] ここのみBogdanus(Boh-ではなくBog-)となっている。 [12] ここは小文字。 [13] 現代ウクライナ語訳では「ツァーリ」(цар)としているが、原文は「公」(princeps)。 [14] Матях В. М. ДАНИЛО ГРЕК // Енциклопедія історії України: Т. 2: Г–Д / Редкол.: В. А. Смолій (голова) та ін. НАН України. Інститут історії України. Київ: Наукова думка, 2004. [http://www.history.org.ua/?termin=Danylo_Grek] (2022年2月16日閲覧). [15] Borysthenēs. ドニプロー川(Дніпро)の古典ギリシャ語名ボリュステネース(Βορυσθένης)から作られたラテン語名。 [16] ここのDuxについては、ザポローッジャ城柵の非登録衆が自分たちの統率者を「公」と呼ぶのは違和感があるように思ったので、「軍将」の意味で取った。ザポローッジャ衆は、ヤーキウ・バラバーシュを彼らの軍政庁の長である軍衙長(кошовий отаман)に選出している。 [17] ラテン語原文ではCancellariusだが、この場合は国家宰相(канцлер)のことではなくてモスクワ国家のドゥーマ会議書記官(дьяк думный)を指す(訳語は中沢敦夫『ロシア古文鑑賞ハンドブック』群像社、2011年、316頁ほか)。 [18] 現代ウクライナ語訳ではАлмашевとしているが、アルマース(金剛石)の通名で知られたエロフェーイ・イヴァーノヴィチ・イヴァノーフ(Ерофей [Алмаз] Иванович Иванов, 1669没)のことであろう。右に言及および彼に宛てたポルターワおよびメィールホロド連隊長からの書簡がある。Акты, относящіеся къ исторіи Южной и Западной Россіи, собранные и изданные Археографическою комиссиею. Т. 15. СПб., 1892. С. 51, 57–62 [http://resource.history.org.ua/item/0005853] (2022年2月21日閲覧). [19] ラテン語原文では、ボフダーン・フメリネィーツィケィイの場合はBohdanus、ボグダーン・ヒトロヴォーの場合はBogdanusと区別されている。 [20] このときのプレィルーケィ連隊長はペトロー・ドロシェーンコ(Петро Дорошенко, 1627–98)で、彼に代えて任命されたのはヤーキウ・ウォローンチェンコ(Яків Воронченко, 1609–79)。 [21] Веприк. 現ポルターワ州、メィールホロド地区の村。17世紀にはハーデャチ連隊、ヴェープレィク百人隊の中心町。 [22] CXXVII. Копія универсала отъ имени Войска Запорожскаго къ иноземнымъ владѣтелямъ, изъясняющаго причины разрыва съ Москвой. –– S. 1. et d. (октябрь 1658 г.?) // Архивъ Юго-Западной Россіи, издаваемый комиссіею для разбора древнихъ актовъ. Ч. III. Т. VI. Кіевъ, 1908. С. 362–369. [23] Немирич Ю. Маніфестація від імені Війська Запорозького до іноземних володарів, що пояснює причини розриву з Москвою від жовтня 1658 року / Пер. з латин. В. Ничик та В. Андрушко // Тисяча років української суспільно-політичної думки. У 9-ти т. Київ: Дніпро, 2001. Т. 3. Кн. 1. Треча чверть XVII ст. / Упор., передм., приміт. В. Шевчука. С. 324–331. [24] ウクライナ語訳の意味合いが完全に理解できなかった部分等、部分的にラテン語原文から訳している。 [25] 「アンドレイ公は一一六九年にキエフに攻め入り、これを容赦なく破壊すると、キエフにとどまって大公に就くことはなく、すぐさま軍を率いて本拠地を北東のウラジーミルに構えます。そこにはルーシの頂上の都市としてキエフを尊重する感覚はもはや見られません」(中沢敦夫『ロシアはどこから来たか―その民族意識の起源をたどる―』(ブックレット新潟大学6)新潟日報事業社、2002年、34頁)。なお、ボゴリュープスキイというのは彼の領地の名称から来ているが、同書では語感から「敬虔公」と訳している(語源は、「ボゴ」は「神」、「リュープ」は「愛」から来ている)。 [26] 1654年に行われたウクライナ・コサック国家のモスクワ国家への臣従における《臣従》の解釈は、右を見よ。Таирова-Яковлева Т. Инкорпорация: Россия и Украина после Переяславской рады (1654–1658). Киев: ООО «Издательство “Клио”», 2017. С. 33–35.

2022年2月26日(土)

(2022年4月27日(水)一部修正)

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