ホティーン要塞の防壁(2013年)
Kraj nasz, owa »ziemia obiecana, mlekiem i miodem płynąca«, którego przeznaczeniem, zda się, było stać się rajem ziemskim dla ludzi, był od zarania dziejów i prawie do naszych czasów widownią krwawych, śmiertelnych zapasów.[1]
我らが郷土〔くに〕、この〈乳と蜜との流るる約束の地〉[2]は、蓋し人類にとっての地上の楽園となるべきが、その歴史の濫觴〔らんしょう〕からほとんど今日に至るまで血に塗れた死の格闘技の観客となった。
ウクライナの歴史家ウヤチェスラーウ・レィペィーンシケィイ(В’ячеслав Липинський [Wacław Lipiński], 1882–1931)は、ウクライナの歴史をこう総括し、その主著『ウクライナの士族』(„Szlachta na Ukrainie”, 1909)を始めた。ウクライナの歴史は、その豊かな国土に拘らず、否むしろその豊かさがために、常に戦いの連続であった。
内輪の争いもあったが、ウクライナを長年蝕んだ「格闘技」が、異文化世界から絶え間なく襲い来る侵略者との戦いであった。その世界とは、非‐ヨーロッパ世界――やがて《東方》と表現されるようになる――たるクリミア汗国やオスマン帝国とその属国、モスクワ国家であった。ウクライナはこれら異世界との《境界地帯》であり、その闘争の最前線であり続けたのである。
この戦いは、《ヨーロッパ人》たるを自負するこの地の住人たちにとっての《世界》を守るための《聖戦》であった。
ルーシ人(近世ウクライナ人)の文人スタニスラーウ・オリホーウシケィイ(彼が著作に用いたラテン語ではスタニスラウス・オリホウィウス乃至オリコウィウス、ポーランド語ではスタニスワフ・オジェホフスキ)が世に問うた《キリスト教防壁論》は、当時のポーランド王国をキリスト教ヨーロッパ世界の異世界に対する《防壁》と位置づけたのであるが[3]、実際にその《聖戦》の最前線を担ったのはポーランド王国王冠領に入ったウクライナだったのである[4]。
遺跡とはまさに歴史の証人にほかならないのであり、それを見れば昔日の景色が蘇るのである。
16世紀から17世紀に《防壁》の中核を成したのが、今日のウクライナ中西部に当たる地方であった。まず、今日のテルノーピリ州の州中心市となっているテルノーピリ[5]から始めれば、この都市は、ポーランドの誇る大将軍ヤン・アモル・タルノフスキ(Jan Amor Tarnowski, 1488–1561)の築いた城郭都市であった。彼は、セレート川[6]を堰き止めて人造湖とし、その畔にこの城郭都市を築いた。攻め来る敵の騎馬の足をこの湖で止め、その侵攻を阻止せんとしたのである。
テルノーピリ城(2016年)
テルノーピリから北東へ向かう道は今日、延々と続く畑を囲う防風林の列に守られているが、かつては森々たる丘陵地帯であったろうこの通商路を守ったのは、ウクライナとリトアニア、ポーランドの騎士たちであった。そして、この街道を17キロメートル行ったところにあるのが、ウクライナの大大名の公座都市、ズバーラジュ[7]である。
ズバーラジュは、この町を本願として栄えたルーシの《主筋なる公達》ズバラージケィイ公(Збаразькі)が築いたイタリア式城郭都市であった。海から遠く隔たった森の奥の小都市に彼らはヴェネツィア風の《パラッツォ・イン・フォルテッツァ》を建て、巨大な郭で囲って全ウクライナでも稀に見る一大城郭都市に仕立てたのである。
ズバーラジュ城(2019年)
ここから北へ20キロメートル程行けば、ズバラージケィイ公の分家、コサックの大将としても名高いヴィシュネヴェーツィケィイ公(Вишневецькі)の本願ヴィーシュネヴェツィ(現ヴィーシュニヴェツィ)[8]がある。
その先には王妃ボナ・スフォルツァの城のあるクレーメネツィ[9]、さらに北にはウクライナ最大の大名オストロージケィイ公(Острозькі)とザスラーウシケィイ公(Заславські)が領したオストローフ限嗣相続領の首府ドゥーブノ[10]がある。
ドゥーブノの東にはヴィシュネヴェーツィケィイ公のタイクレィー[13]、コレーツィケィイ公(Корецькі)の本願コーレツィ[14]、オストロージケィイ公の本願オストローフ[15]、ザスラーウシケィイ公の本願ザースラウ(現イジャースラウ)[16]といった堅城が連なる。
クレーメネツィ城(2014年)
ドゥーブノから西に行けば、ポーランド人大名コニェツポルスキ(Koniecpolscy)の誇る堅城ブローディ[17]の一大城郭都市の稜堡群があり、その南西にはダネィローヴィチ(Даниловичі)のオレーシコ[18]、コニェツポルスキのピドヒールツィ[19]、ソビェスキ(Sobiescy)のゾーロチウ[20]のルネサンス=マニエリスム様式の城郭がある。
ブローディとその東のクレーメネツィのあいだにはポチャーイウ[21]の築城修道院が聳えており、修道院の南方にはヴィシュネヴェーツィケィイ公のザロージツィ(現ザリージツィ)[22]やオレークセィネツィ[23]の城郭があって、ザロージツィから南西へ下ればズボーリウ[24]に、その先には先述のゾーロチウ、三重の外郭に守られたリヴィーウがあり、一方ザロージツィから南東に下ればテルノーピリに戻る。
ゾーロチウ城(2018年)
テルノーピリの東にはズバラージケィイ公の領したウォロチーシク[25]やオジーヒウツィ[26]の城郭があり、テルノーピリから南下すれば、テレボーウリャ[27]、スカラート[28]、チョルトキーウ[29]、ピドザーモチョク[30]、ブーチャチ[31]、ヤズロヴェーツィ[32]、ゾロティーイ・ポティーク[33]、サータニウ[34]、セィードリウ[35]、スカラー=ポディーリシカ[36]といった中世から近世にかけての城郭群が今日なお軒を連ねている。
チョルトキーウ城(2014年)
これほどまでに多くの城郭をこの地の住人に築かせた恐怖心の源は、その南に控えていた強大な敵の存在であった。
何度討ち払っても倦むことなくまさに《雲霞の如く》湧き上がっては襲撃を繰り返すクリミア、ブジャクの剽悍なる騎兵、オスマン帝国の誇るイェニチェリの大軍団は、彼らの襲撃する地に住む者たちに、後世彼らに対して東の暴君が与える恐怖と同等か、それ以上の不安を与え続けたに違いない。
16世紀には、ドニプロー川の防衛のための衛士として、コサックの根拠地が形成される。
ドメィトロー・ヴィシュネヴェーツィケィイ公(Дмитро Іванович Вишневецький, 1517頃–1563乃至64)を開闢者とするのが定説であるが、ドニプロー川の名高い八十瀬の向こうの地(ザポローッジャ)に築かれたことからザポローッジャ城柵(シーチ)と呼ばれた。
さらに、16世紀後半から17世紀にかけてドニプロー川彼岸(東岸)の再開発が進むと、その地に勢力を伸ばしたウクライナ諸侯とモスクワ国家とのあいだで国境紛争が頻発するようになった。
なかでも、モスクワ君主ボリース・ゴドゥノーフがアダーム・ヴィシュネヴェーツィケィイ公(Адам Олександрович Вишневецький, 1566–1622)の築いたウクライナの都市を焼き討ちしたことに端を発する争いは、ウクライナとリトアニアの諸侯がモスクワを陥落させる大戦さにまで発展した。
その後も続く国境紛争のなかで、モスクワ大公がポーランド王ヴワディスワフ4世へ、ルブネィー[40]の公方ヤレーマ〔イェレミーヤ〕・ヴィシュネヴェーツィケィイ公(Ярема [Єремія-Михайло Корибут[41]] Вишневецький, 1612–51)に対する苦情を伝える使者を送ったところ、日頃からウクライナ諸侯の持つあまりに巨大な権力に反感を抱いていた王は、皮肉を込めてこう返答したと伝わる。
ウクライナの《防壁》はこうして東へ厚みを増していき、その守護者として初め公たちが、やがてコサックがその名を上げていったのである。
こうした幾重にも張り巡らされた防衛線の構築を見ると、近世においては「境界地帯、国境地帯」を意味したとされる《ウクライナ》という地理概念を、東のドニプロー川流域だけに限定して考える理解は誤りであるようにも思われる。
ちょうど今日ウクライナと呼ばれる地域の大半が丸々キリスト教的ヨーロッパ世界の《防壁》だったのであり、その意味において、その地域はすべからく《境界地帯‐ウクライナ》であった。
《ヨーロッパ世界》をその外界から攻め寄せる夷狄から守る最前線の《橋頭堡》が、《ウクライナ》にほかならなかったのである。
---- [1] Lipiński W. Szlachta na Ukrainie. I. Udział jej w życiu narodu ukraińskiego na tle jego dziejów. Kraków: Księgarnia Leona Idzikowskiego. 1909. S. 7. [2] 『申命記』11:9「またヱホバが汝らと汝らの後の子孫にあたへんと汝らの先祖等に誓たまひし地乳と蜜との流るる國において汝らの日を長うすることを得ん」を引用していると思われる。 [3] 我々(日本語話者)は、《防壁論》に関する小山哲氏や関口時正氏の先行研究に恵まれている。例えば右。関口時正『ポーランドと他者 文化・レトリック・地図』みすず書房、2014年、107–160頁収録の「ポーランド《防壁論》のレトリック――一五四三年まで」と「ポーランド《防壁論》のレトリック――ルネッサンス後期」。 [4] 厳密には、オリホーウシケィイの生前、1569年まではリトアニア大公国領に入っていた地域が多い。 [5] Тернопіль. 現テルノーピリ州の州中心市。 [6] Серет. ドニステール川の支流。リヴィーウ州、ゾーロチウ地区に水源を持ち、テルノーピリ州を流れる。 [7] Збараж. 現テルノーピリ州の地区中心市。 [8] Вишневець (Вишнівець). テルノーピリ州、ズバーラジュ地区の都市型大村。歴史的には今日のスタレィーイ・ヴィーシュニヴェツィ村もその領域に含んだ(Собчук В. Д. Від коріння до крони: Дослідження з історії князівських і шляхетських родів Волині XV – першої половини XVII ст. Кременець: Кременецько-Почаївський державний історико-архітектурний заповідник, 2014. С. 92)。 [9] Кременець. 歴史上はクレムヤーネツィ(Крем’янець)とも。現テルノーピリ州の州政令指定都市、地区中心市。 [10] Дубно. 現リーウネ州の地区中心市。 [11] Клевань. 辞書によってはアクセント位置がクレワーニ。現リーウネ州、リーウネ地区の都市型大村。1440年頃から1793年まで、クレーワニ公国の公座が置かれた。 [12] Луцьк. 現ウォレィーニ州の州中心市、地区中心市。 [13] Тайкури. 現リーウネ州、リーウネ地区の村。ユーリイ・ヴィシュネヴェーツィケィイ公(Юрій Михайлович Вишневецький, 1617乃至18没)の城がある。 [14] Корець. 現リーウネ州の地区中心市、地区政令指定都市。オストロージケィイ公の知行地、のちコレーツィケィイ公の本貫地。 [15] Острог. 現リーウネ州の地区中心市、州政令指定都市。オストローフ公国の首府。現代ウクライナ語の正書法ではオストリーフ(Остріг)の方が正しいとされ、そう表記されることもある。 [16] Заслав (Ізяслав). 現フメリネィーツィク州、シェペティーウカ地区の都市共同体中心市。 [17] Броди. 現リヴィーウ州、ゾーロチウ地区の市。2020年まで地区中心市。 [18] Олесько. 地元では「オレシコー」と発音する。現リヴィーウ州、ブーシク地区の都市型大村。イワーン・ダネィローヴィチの居城が現存する。イワーン・ダネィローヴィチ(Іван [Ян] Данилович, 1570–1628)の娘の子、ヤン・ソビェスキが育った城。 [19] Підгірці. 現リヴィーウ州、ゾーロチウ地区の村。コニェツポルスキ氏のルネサンス=マニエリスム様式の稜堡式城郭で知られる。 [20] Золочів. 現リヴィーウ州の地区中心市。ヤン・ソビェスキの愛したルネサンス様式の稜堡式城郭で知られる。 [21] Почаїв. 現テルノーピリ州、クレーメネツィ地区の都市。ポチャーイウ就寝大修道院で知られる。ウクライナ士族の寄進により建てられた。 [22] Заложці (Залізці). 現テルノーピリ州、ズボーリウ地区の都市型大村 [23] Олексинець. 現テルノーピリ州、クレーメネツィ地区、ロプーシュネ村共同体のスタレィーイ・オレークセィネツィ村(Старий Олексинець)。ドメィトロー・ヴィシュネヴェーツィケィイ公の弟であるアンドリーイ・ヴィシュネヴェーツィケィイ公(Андрій Іванович Вишневецький, 1538–83/84)の建てた城郭がある。 [24] Зборів. 現テルノーピリ州、テルノーピリ地区の市。 [25] 現在、ウォロチーシク(Волочиськ)という都市地域共同体中心市が、フメリネィーツィク州、フメリネィーツィク地区にある。この市がかつてオーストリア帝国とロシア帝国で分割された結果、元のウォロチーシクの半分は現在テルノーピリ州、テルノーピリ地区のピドウォロチーシク都市型大村(Підволочиськ)となっている。城郭の所在地は不明で、このいずれとも違う場所にあった可能性もある。 [26] Ожигівці. 現フメリネィーツィク州、フメリネィーツィク地区、ウォロチーシク都市地域共同体の村。ただし、かつて町であったこの自治体にオーストリアとロシア、両帝国間の国境が引かれて分割された結果、城郭の所在地は現在、テルノーピリ州、テルノーピリ地区、スコーレィケィ村共同体のトケィー村(Токи)となっていて、城郭もトケィー城(Токівський замок)と呼ばれることが多い。城郭はヤーヌシュ・ズバラージケィイ公(Януш Миколайович Збаразький, 1608没)の築城で、トケィーという地名が確認されたのはメィハーイロ・セルワーツィイ・ヴィシュネヴェーツィケィイ公(Михайло Сервацій Корибут Вишневецький, 1680–1744)の時代である。 [27] Теребовля. 現テルノーピリ州、テルノーピリ地区の市。2020年まで地区中心市。 [28] Скалат. 現テルノーピリ州、テルノーピリ地区の都市共同体中心市。 [29] Чортків. 現テルノーピリ州の地区中心市。 [30] Підзамочок. 現テルノーピリ州、チョルトキーウ地区、ブーチャチ都市共同体の村。マニエリスム様式の城郭がある。 [31] Бучач. 現テルノーピリ州、チョルトキーウ地区の都市共同体中心市。2020年まで地区中心市。ピドザーモチョクのすぐ南にある。ブーチャツィケィイ氏の本願。 [32] Язловець. 現テルノーピリ州、チョルトキーウ地区の村。ブーチャチの南にある。ブーチャツィケィイ氏の分家、ヤズロヴェーツィケィイ氏の本願。 [33] Золотий Потік. 現テルノーピリ州、チョルトキーウ地区の大村都市共同体中心都市型大村。ステファン・ポトツキ(Stefan Potocki, 1568–1631)とその妻マリーヤ・アマーリヤ・モヘィリャーンカ(Марія Амалія Могилянка, 生没年は諸説あり)の居城がある。 [34] Сатанів. 現フメリネィーツィク州、フメリネィーツィク地区の大村地域共同体中心都市型大村。 [35] Сидорів. 現テルノーピリ州、チョルトキーウ地区、フシャーティン大村地域共同体の村。1640年代の城郭がある。 [36] Скала-Подільська. 現テルノーピリ州、チョルトキーウ地区の大村共同体中心都市型大村。 [37] Жванець. 現フメリネィーツィク州、カムヤネーツィ=ポディーリシク地区の村地域共同体中心村。15世紀の城郭がある。 [38] Хотин. 現チェルニウツィー州、ドニステール地区の市共同体中心市。 [39] Кам’янець-Подільський. 現フメリネィーツィク州の州政令指定都市、地区中心市。中世にはポディーッリャ公国の首府、それが亡ぼされた1463年からはポディーッリャ県の中心市。 [40] Лубни. 現ポルターワ州の地区中心市。オレンドル・ヴィシュネヴェーツィケィイ公(Олександр Михайлович Вишневецький, 1560–1593)が城を築いて都市が拓かれた(Грушевський М. С. Історія України-Руси: в 11 т., 12 кн. / Редкол.: П. С. Сохань (голова) та ін. Київ: Наукова думка, 1995 (вперше видано: Київ-Львів, 1909). Т. 7. С. 226)。 [41] Войтович Л. В. Княжа доба: портрети еліти. Біла Церква, 2006. С. 657. [42] Ромни. 現スーメィ州の州直轄市、地区中心市。 [43] „Większe prawo ma do Moskwy książę Jeremi, niżeli Car Moskiewski do Rumna.” (Niesiecki N. Herbarz polski: T. XI. Lipsk: Breitkopf i Hærtel, 1842. S. 356). また、Szajnocha K. Dwa lata dziejów naszych. T. 1. Polska w roku 1646. Lwów, 1865. S. 184では右の通り。「ヴィシニョヴィェツキ公のモスクワ〔の玉座〕に持ちたる権利、貴殿ら〔モスクワの使節たち〕が大公のルムノへの〔権利〕より大なり。」(„Większe prawo ma kniaź Wiśniowiecki do Moskwy niż wasz w. xiążę do Rumna.”)
2022年3月4日(金)03:28
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