シェイクスピアは、言わずと知れたイギリス・ルネッサンス期を代表する作家である。その作品は娯楽として楽しめ、文学として鑑賞でき、語学的にも興味が尽きない。
世界的に有名でありながら、彼には、その出生からして謎が多い。当時、学問分野ではラテン語使用が一般的だったのに、彼はイングランドの言葉(近世英語)で作品を執筆した。謎である。他にも探究心を刺激することが多い。その一つが『ロメオとジュリエット』のジュリエットの下の有名なせりふだ。
What's in a name? 名前には、何があるというの?
That which we call a rose 私たちがバラと呼ぶものは、
By any other name would smell as sweet. 他のどんな名前で呼んでも、
同じように甘く香るわ。
(伊藤サム訳)
ご存じの方も多かろうが作品をざっと紹介しよう。
舞台は14世紀、北イタリアの都市(まち)ヴェローナ。都市(まち)きっての旧家モンタギュー家とキャピュレット家にはそれぞれ一人息子ロミオと一人娘ジュリエットがいた。あるとき、二人は舞踏会で出会い、たちまち恋におちる。ところが両家は仇敵として代々いがみ合っていた。ロミオの正体を知ったジュリエットの苦悩はどれほどのものだったろうか。この苦悩が上の言葉になった。その後の恋の行方については皆さんにお任せし、ここではセリフのバラと名前についてすこし考えてみよう。
バラは、ヨーロッパでは英語のroseを始め、フランス語rose、フィンランド語ruusuなど、ラテン語rosa系の名前が多いが、ギリシャ語(以下独自の文字、ラテン文字転写の順)τριαντάφυλλο triantáfyllo、ウクライナ語троянда trojanda、カフカスのジョージア語では ვარდი Vardi、、、と言うように様々に呼ばれ、名前は決して同じではない。それでも品種と生育条件さえ同じならば、同じように甘く香る。確かにジュリエットの言うとおりである。
バラ以外に、例えば、父、母をさす言葉を見てみると、父はジョージャ語では、なんとმამა mamaママと言われるし、母は、その昔日本ではパパと呼ばれていた。それでも父や母を指すことに変わりはない。
このような時、言語学は、言語記号の表現面(下図参照。バラという名前、つまりバラという音・表記)と記号の内容面(とげがあり一般に芳香を発し花をつける植物、のようにある集団間で共有される一般通念・概念)との結びつきには恣意性があると説明する。バラの名前などなんでもよい、というか上に見たように様々な名前で呼ばれうるというのである。なるほど、納得である。しかし、ジュリエットの悩みはこの説明で解消であろうか。
実は、つい忘れがちなことが二つある。上に述べた恣意性が言えるのは、あくまで通言語、通時的な見方をした場合なのである。つまり、多くの言葉(含む地域語)を横並びに見る場合や一つの言葉を様々な時代を通してみる場合に限られる。抽象的な言語における命名の可能性と具体的な言語での実現性は別物である。
それに対して、現代の日本語というように、ある時代のある言語に限っていうならば、その話し手にとっては名前イコール話し手の考えるもの(通念。指示対象も?)そのものであり、決して恣意的なものではない。名前は自由にとっかえひっかえできる、無数の交代可能な候補の中の一つではないのである。
例をみよう。叙情的な作風で知られる詩人三好達治に「乳母車」という詩がある。その冒頭は「母よー 淡くかなしきもののふるなり」であるが、これが「パパよー」で始まっていたら、現代日本語としては情感、音感が一変し、詩が成立しないだろう。ここはやはり「母よー」でなくてはならない。
それならばなおのこと、特定の時・所(14世紀イタリア)に住み、特定の言語を用いていたジュリエットが、なぜ名前などはどうでもよいと思ったのだろうか。
話を分かりやすくするため、言語の使用を会話に限定し、バラを言語記号の代表とする。また支障がない限り、言語、言語記号は言葉、指示対象は指し示す物などとする。
実は忘れてはならないことがもう一つある。それは言語の使用という側面である。つまり、話し手・聴き手(言語使用者)、両者の知識(バラという名前とそれが何を指すかを知っているか否か)、バラをどのくらいよく使うか、最後がここでは最も重要であるが交流圏と通語性である。
図
結論を先に述べるならば、交流圏の広さと通語性の精度は反比例するのである。順に見て行こう。
交流圏とは、大まかにはある言語が通ずる範囲(自分の言葉で交流する範囲)である。
通語性とは、バラ1(音や表記)がバラ2(通念・概念)を表すことを理解し、バラという名前・記号が現実の特定のバラを表すことを理解するという2段階の理解の程度のことだが、これには様々な問題がある。
かりに異なる言葉同士であっても、スラヴ諸語やフィンランド語とエストニア語などのように語族が同じ場合、ある程度自分の言葉が他でも通ずる。逆に同一言語圏内でも「理解」に問題が生じる場合もある。
浪速っ子は江戸っ子の雑煮の餅を見て驚くが、浪速っ子の一般通念(雑煮の餅は丸い)が東京の現実(雑煮の餅は四角形)と一致しないからである。このような場合、通語性は低いとみなす。
そもそもバラ1からバラ2(図参照)への理解が成立しない事すらある。童謡「でんでんむしむしかたつむり」で有名なカタツムリの呼び名は、日本語には187通りもある《柳田國男『蝸牛考』》。日本人でも場合によっては聞いて分からないこともあろう。
通語性の程度は様々である。バラが、例えば料理名やスポーツの種目ではなく、花であるという理解から、ある話し手が言うバラは、バラa、バラb、、、など5000種以上あるバラの内、ある園芸家の育てた、咲き初めの、淡いピンクの、アガテ・インカルナータであるとすぐにピントと来るような精緻な理解度もある。さらに、初デートの時に、初恋の人から顔を赤らめておずおずと差し出されて、その後ずっととっておいた花などという思い出もバラに結びつく人もいるだろう。通語性にはグラデーションがあるのである。
通語性の点から交流圏の大きさをみると、識別・区別するための記号を最も必要とする異文化間交流圏を一方の極(通語性最低)とし、対極には、同一言語圏、同一方言圏、同郷人、、、年齢、性、趣味・嗜好、職業を同じくする集団、親友のグループ、同一家族、夫婦、恋人(通語性最大)がある。
最後の夫婦、恋人のように関係が密な場合、記号など不要か最小限のもので意思疎通が可能となる。
「あれどうした、ああなったかな。」「ああなりました。」とか、年配者の間の「何(なに、にの音程が高い)はどこにある。」、「何したのか。」「何しました。」、さらには「したのか。」「しました。」のような会話がそれである。
交流圏の広さと言葉の必要性、通語性の精度は反比例するのである。
ジュリエットにとって、モンタギュー家のロミオというのは、単なる名前、音の連なり、記号ではない。舞踏会でジュリエットに接吻を迫り、接吻し、たちまち心を奪った生身の人間そのもの、この世でただ一人の、唯一絶対の存在なのである。唯一絶対なので他と識別・差別化するための名前を言挙げする必要がないわけである。
それだけではない。
一般に交流圏が小さくなると、周りの社会とは別の、圏内でしか通用しない「圏内語」が生まれやすい。若者言葉、業界用語、裏社会の隠語等などである。言葉だけではない。内部の事情に則した独自の習慣、決まりが生まれ、それは一般社会のものに優先することが多い(例。マフィアの掟と社会の法との関係)。
とくに二人という究極の交流圏である夫婦、ロミオとジュリエットのような恋人の場合がまさにそうである。
二人の個性、感性、二人だけの共通体験・思い出が組み込まれた言葉が生まれ、外の世界とは隔絶したミクロコスモス(小宇宙)が出来上がる(ロミオとジュリエットには、ロミジュリ語!なるものがあったかもしれない。)それは心理的には外部世界とは独立した世界である。だから、モンターギュ云々などは外部世界の事で二人の世界とは関係ないのである。小宇宙にいる二人は一般社会のことなど別世界のことである。「俗世間が神聖な二人だけの世界に土足でずかずかと踏み込んでくる」のが我慢ならない。この心理がジュリエットに名前などどうでもよいと言わせたのであろう。
そういえば、名作はあらゆる面から鑑賞でき、巨匠はあらゆる分析に堪えるそうだが、同時に名作とは読者にいろいろ考えさせるものである。
文学や心理学、社会学、命名学、、、からはどのような解釈が出るのだろうか。
それにしても、名前とは、一体なんなんだろうか。
それにしても本当に名前などどうでもよいのであろうか。バラの名前が、例えば、ベロニカならまだしも、その和名オオイヌノフグリ(辞書を引かれたい)やヘクソカズラだったら、親しい人へのプレゼントの際、一瞬ためらいを感じないだろうか。
今回は触れなかったが、より大きな問題は外国語や新製品名のように、言葉が何を指すか(言語記号の指示対象)がわからない場合であるがそれについては別稿に譲りたい。
スタラドゥーボフ
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