人間はどのように「ことばで」外界を認識するのでしょうか。
心理学によると,幼児は全体的,総合的な認識をするそうですが,大人は言語による分析的な認識をするそうです(田島信元氏講義から)。
状況全体から,人,場所,ものごとを取り出し,その関係としての動作・存在・状態という形で認識をするのでは,と「ことば屋」としては考えています(時間はさらに何段階か抽象的でしょう)。
このようなとらえ方は,細かい差はあっても,人間に共通したものではないかと思われます。「だれ」「どこ」「なに」「いつ」に翻訳できる表現をもたない言語があるでしょうか。
人として「人」に最も注目するのはごく自然のことですし,その「人」がじっとしているのか,動くのかにも注目することでしょう。そのため,背景である「場所」に関心が行くことも当然のことでしょう。一方,人とは違う実体として「物」をとらえることが考えられます。その「物」に何かするのか,つくりだすのか,道具として使うのか…「物」の延長で「事」もとらえることになるのではないでしょうか。
「人」⇒「場所」
⇒「物」⇒「事」
また,「だれ?」「どこ?」「なに?」というとらえ方(同定)に加えて,「どんな人?」「どんな場所?」「どんな物?」と詳細にとらえていくことも考えられます。
一方,「人」と「場所」との関係なら,
「だれが どこに いる?」(存在)
「だれが どこに 行く?」(移動)
というとらえ方になるでしょうし,「人」と「物」の関係なら,
「だれが なにを ~する?」
に,さらには
「だれが なにを する?」
という「動作」そのもののとらえ方になるでしょう。
「人」と「人」の関係,「人」と「人」と「物」の関係,「人」と「物」と「場所」の関係,…へとさらに広がっていきます。
「だれが だれを/だれに ~する?」
「だれが だれに なにを あげる?/もらう?」
「だれが なにを どこに もっていく?」
こうした表現も,何らかの形で翻訳可能なものであり,いずれも人間に共通したとらえ方ではないでしょうか。個人的なとらえ方というよりも,各言語において規則化されたパターンを持つものであると想像されます。
(続く)
ご批判よろしくお願いいたします。
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