top of page

ポーランド随想 1

(2016/06/18~2016/12/30)

 

小川 万海子

1.夏至に寄せて

 二十四節季は、日本人に生まれた幸せをあらためて感じさせてくれるものであり、背筋が伸びる思いでそれぞれを迎える。夏至は、「何かが起こる」という魔法がかった高揚感に包まれる日だ。母は、夏至を境に日が短くなっていくのだから、夏至の日は物悲しいという。そういう捉え方もあるものかと不思議に思っていたが、ラジオで、母と同じように夏至に淋しさを感じるという視聴者の声を聞いて驚いたことがある。確かに、これからが夏の本番であるが、日暮れは確実に早くなり、8月ともなると、夜の闇の深さに愕然として、侘びしさを覚えるものだ。だが私にとっての夏至はあくまで輝きに満ち、自然界の大舞踏会で妖精たちが舞い踊るような、何かとてもメルヘンチックな想像力をかきたてられる。
 夏至にあう花は、梔子、半夏生。やはり白い花々がよく映る。梔子は古い家屋の門先で、ひっそりと甘美な香りを漂わせていることが多い。こうした古風な花に出会うとほっとするものを感じる。音の響き、漢字の佇まいからして神秘的な半夏生。葉におしろいをつけたような白さが、梅雨の曇天に明となり、涼やかな風を心に送ってくれる。
 
 ポーランドの地に初めて赴いたのが1995年の夏至の日だった。もう21年も前になるのかと感慨深い。成田からフランクフルト経由で15時間あまり。ワルシャワのオケンチェ空港(現フレデリック・ショパン空港)に降り立ったのは、夕暮れ時だった。職場の先輩二人が迎えに来てくれて、夏の間、借りることになっているアパートに案内してもらった。そこは9月いっぱいまで避暑でワルシャワを離れるご夫婦の住まいで、様々な店が立ち並び、バスやトラムも往来する賑やかな通りに面したアパートだった。
 古い木の門を開けると中は薄暗く、ひんやりとした空気とカビのような臭いに包まれる。いつ止まってもおかしくないような古色蒼然としたエレベーターで4階まで上がる。部屋のドアには鍵穴が五つほど縦に並んでおり、先輩のOさんが、まるで監獄の看守が持つような鍵束を取り出して開けてくれた。東京の我が家は、昼間は鍵をかけないのが当たり前であり、それは、
「ああ、外国での暮らしが本当に始まった。」
と実感した瞬間だった。
 部屋の内部は、ご夫妻が中国に赴任していたということで、東洋風の家具や調度品が並ぶ不思議な空間だった。荷物を置いただけで、夕食に出るためそそくさと部屋を後にし、Oさんが鍵の掛け方を説明してくれた。左に回すもの、右に回すもの・・・眠気で朦朧とした頭で聞きながら、不安な予感を残してその場を離れた。
 ただただ早く横になりたい、それだけしか考えられなかった日本料理店での食事会が終わり、アパートに送ってもらったのは夜の10時頃だった。門の前で車を降り、まだ明るさの残るワルシャワの夜に一人になった。門をあける鍵。これは問題なし。エレベーターも無事に動いてくれて、ガッシャンと大きな音を立てて4階で止まる。そして部屋の前に立つ。さあ、ここからだった。予感通り、鍵の開け方がわからない。心細さが募り、冷汗が流れてくる。一刻も早く眠りたい。でも開かない。暗い踊り場の電気は、スイッチを押すと点灯するが、3分ほど経つと自然に消えてしまう。何度もスイッチとドアを往復し、小一時間ほど格闘していた。もうこのまま朝になってしまうのだろうか・・・
「どうしてこうなるの?ああ、神様、どうか助けてください!」
涙声になっていると、ガチャガチャと響く音を不審に思った隣家のおばさんが寝巻きのままで出てきてくれた。
「開かないんです・・・」
そう呟いた私から鍵束を受取り、おばさんが試してくれた。結局、一番下の鍵をぐっとまわしながらひと押しすると、魔法のようにすっと分厚い木の扉が開いた。あれほどありがたいと思った瞬間はない。    
 ポーランドでの3年間の生活で、3回引っ越しをしたが、いつも鍵束は何より大切なものとして、バッグにずっしりとした重みをなしていた。そして、ポーランド人はいつも優しかった。

                 (2016/06/18)

2.ワルシャワのさくらんぼ

 

 今年もさくらんぼの季節が巡ってきた。私にとってさくらんぼは、果物の中でも特別な存在だ。その名の響き、夏帽子に飾りたくなるような風情、そして口に入れたときの幸福感、全てが愛おしい。さくらんぼを目にすると、今も蘇る忘れえぬ光景がある。それは今から二十年ほど前、ポーランドで暮らし始めて間もない頃の出来事である。
 仕事の関係で三年間を過ごしたポーランドでは、夏になると、野菜屋にさくらんぼが山積みになっていた。日本では、宝石のように箱詰めになっているのが常だが、日本のさくらんぼよりも大ぶりで濃い赤い実が、店先にまさに小山をなしており、それが一キロ八十円ほどで量り売りされていた。異国の濃い甘さに酔いしれるように、私も山のように食べたものだ。
 ポーランドでの生活は、ワルシャワ市街を南北に走るプワフスカ通りから始まった。「東欧」の陰鬱なイメージを蹴散らすかのように、ワルシャワの夏は一点の曇りもなく明るかった。迦陵頻伽のごとき鳥のさえずりに満ち、アスファルトが柔らかくなるほどの暑さに、老若男女、アイスクリームを手にして、できるだけ肌を出して闊歩していた。
 ポーランド語のサマースクールに通うため、通りに面した古いアパートを借りた。プワフスカは、路線バスが往来し、野菜屋、肉屋、パン屋、洋品店など様々な小売店が立ち並ぶ、賑わいの通りだった。歩道の隅では、おばあさんが腰を下ろし、庭から採ってきたような草花を花束にして売っており、よく買っては部屋に飾ったものだ。心の裏側にしまいこまれていたような懐かしい風景がプワフスカだった。
 そして必ずロマの人々がいた。ワルシャワの観光名所の王宮広場や旧市街などでは、ロマの子供達が観光客を取り囲んでは物乞いをし、また、アコーディオンを演奏しながら突然バスやトラムに乗り込んできては小銭を求める光景が、日常茶飯事だった。貧富の差が拡大していた当時のポーランドでは、ロマだけでなく、駅や街角で物乞いの人をよく見かけたものだ。その景色は私の心に幾度も突き刺さり、棘の痛みは今もはっきりと残っている。
 プワフスカ通りのアパートの近くには、五歳くらいのロマの男の子が、子供用の古いアコーディオンを抱えながら道端に座っていた。母親らしき人も見かけたが、大抵一人で、ぼろぼろになった楽器を鳴らしていた。姿が見えない日は、具合でも悪くなったのかと、気持ちがざわつく。不憫でならなかったが、小さな足元の皿に、小銭を置くことしか私にはできなかった。
 ある日の夕方、買い物の途中、その子が野菜屋で紙袋一杯にさくらんぼを買って抱えている姿に出会った。そして、なんとも嬉しそうにさくらんぼを頬張ったのである。初めて見る子供らしい顔だった。縮れた黒髪に浅黒い肌。思えば、それまでその黒くて丸い目に笑みを見たことはない。
「おいしくてよかったね。」
私もただただ嬉しくて、そうつぶやいていた。小さな手に握られたさくらんぼは、一際艶やかに赤く輝いていた。
 
 ポーランドでの最初の夏は、八月の末に突然終わった。
「今日で夏は終わりです。」
ある朝の天気予報で女性予報士がそう宣告し、それ以後、風景は一変する。曇天と冷たい風に、厚手の上着を着込んだ人々の表情には、夏の余韻はなかった。残酷ささえ覚える気候の変化を目の当たりにして、それまで夏の輝きのハレーションでぼやけていた外国生活への不安が、急にはっきりと姿を現した。
 コートを着る寒さの九月下旬、私は語学学校に入学するため、南部の古都クラクフへ引っ越した。翌夏、またプワフスカ通りを訪ねたが、もうあの子に会うことはなかった。
 あの子がどこで寝起きをし、厳冬をどう過ごしていたのか知る由もない。ただ、さくらんぼを頬張っていた時、確かにあの子は嬉しそうに笑っていた。
 さくらんぼは、思い出もまた愛おしい。

                                                              (2016/06/19)                                                           

 

3.投げ落とされたピアノ(1)

 ~「ショパンのピアノ」(ツィプリアン・カミル・ノルヴィッド作)の一考察

 

 

 三国分割下の1863年9月、ワルシャワにおいて衝撃的な事件が起きる。同年1月に対ロシアの武装蜂起いわゆる一月蜂起が勃発するという状況下、9月19日、ワルシャワにおいて、ロシア側に対する襲撃事件が企てられた。ノヴィ・シフィャト通り、聖十字架教会近くのザモイスキ館から、ロシア帝国のワルシャワ王国総督フョードル・ベルクの隊列に爆弾が投じられたのである。ベルクは無傷で襲撃は失敗に終わる。ロシア軍はその報復として、ザモイスキ館の住人を追い出し、その多くを逮捕した上に、調度品や美術品などあらゆるものを館の窓から投げ落として燃やし、建物を徹底的に破壊した。このとき、ショパンがワルシャワ時代に使用していたピアノが投げ落とされ、燃やされたのだった。ザモイスキ館に住んでいたショパンの妹イザベラが所有していたものであり、ピアノの他にも、様々なショパンの形見が灰燼に帰したという。それはショパンが亡くなってから14年後の出来事だった。
 この惨事をパリで知ったポーランドの芸術家が、「ショパンのピアノ」(1865年)という傑作詩を綴った。ツィプリアン・カミル・ノルヴィッド(Cyprian Kamil Norwid 1821-1883)である。ノルヴィッドはその生涯のほとんどをポーランドの外で暮らし、その作品群は難解さもあって生存中はほとんど理解されず、孤独と経済的な困窮の中で、最後はパリの救済施設で病没する。ワルシャワ近郊で没落士族の家に生まれ、早くに両親を亡くし、親族に育てられながらワルシャワのギムナジウム、そして絵画学校に通う。1842年にポーランドを離れてから、フィレンツェ、ローマ、ベルリンなどを転々としながら詩作を展開するほか、絵画、彫刻などを学ぶ。その後パリに落ち着き、一年半ほどのニューヨーク滞在を経て1854年にパリに戻り、随筆『黒い花』(1856年)、『白い花』(1857年)のほか、自選詩集『ヴァデ=メクム』を編纂した。この他、戯曲も手がけるが、1877年にパリのポーランド人救済施設「聖カジミエシュの家」に収容され、1883年に結核で亡くなる。その後、ノルヴィッドの作品群は、20世紀初頭になって「発見」され、ポーランドの詩聖の一人に数えられている。
 ノルヴィッドがパリに居を移したのは1849年の初頭のことであり、最晩年のショパンと親交を深めた。『黒い花』には、シャイヨー通りに住むショパンを最後に訪ねたときのことが記されている。

「・・・客間の隣にある寝室に入っていくと、ショパンは、私の来訪を待ちわびていたと喜んだ。服を着ていたが、ベッドに半身を 横 たえ、投げ出したむくんだ足にはストッキングをつけ、編み上げ靴をはいているのがすぐに見てとれた。ショパンの姉が傍らに腰かけていたが、その横顔が不思議なほど彼によく似ていた。カーテンがついた深めのベッドのシルエットの中で、ショパンは枕に身をもたせ、ストールを巻き、とても美しかった。いつものように、最もありふれた日常生活の立ち居振る舞いの中に、何か完全なもの(coś skończonego)、何か堂々とした輪郭をもっていた。・・・ショパンの身のこなしには、おのずと理想的な完全さ(apoteotyczną skończoność)があり、時や場所を問わず会うたびにいつでもそうだった。」
                                                                 (傍線は小川)

 ノルヴィッドがシャイヨー通りのショパンを訪ねたのは1849年の6月のことであり、その後、9月9日にショパンはヴァンドーム広場に引っ越し、10月17日、永眠する。パリのマドレーヌ寺院にて葬儀が行われ、ペール・ラシェーズ墓地に埋葬されるが、ショパンの心臓は姉によって祖国に持ち帰られ、ワルシャワの聖十字架教会の柱の中に納められた。 

(つづく)

(2016/09/08)

 

4.投げ落とされたピアノ(2)

 ~「ショパンのピアノ」(ツィプリアン・カミル・ノルヴィッド作)の一考察

 

 

 ノルヴィッドの十連からなる「ショパンのピアノ」は、1863年9月の惨事を題材にして、ショパンとその音楽の完全無欠さを謳いあげた作品である。ギリシャ・ローマ芸術の知識や神話が織り込まれ、様々なシンボルや比喩が用いられており、日本語に翻訳することが不可能な域にある極めて難解な作品である。しかし稀代の芸術家としてのノルヴィッドを象徴する圧倒的な迫力をもつ傑作といえよう。

 『黒い花』において、ノルヴィッドはショパンの立ち居振る舞いに、「何か完全なもの」、「理想的な完全さ」を見ているが、「ショパンのピアノ」では、前半でたたみかけるように、様々なシンボルや比喩を用いてショパンの完全無欠性を謳いあげる。第一連では、ショパンの最期の日々を「神話」と形容する。神話は満ち足りた完全なものの象徴。そしてショパンが死に向かう日々に「黎明の蒼さ」をノルヴィッドは見ていた。すなわち、死は終焉ではなく、死によってショパンの生が際立ち始めるのである。
 続く第二連で、最期の日々のショパンは、オルフェウスの手から離れた竪琴に似ていたとノルヴィッドは振り返る。オルフェウスはギリシャ神話に登場する竪琴の名手であり、その音色に植物や動物、岩までもが心動かされたという。ディオニューソスの怒りをかったオルフェウスは、ディオニューソスを狂信する女たちに八つ裂きにされ、頭と竪琴は川に投げ込まれる。竪琴は天に昇り琴座として永遠に輝く。
 木や岩までをも魅了したオルフェウスの竪琴と讃えられたショパン。私はこの実感がある。ワルシャワに思い出す最も美しい時間は、夏のワジェンキ公園でのショパンのコンサートだ。夏になると毎週末の午後、真紅の薔薇咲くワジェンキ公園のショパン像の下にピアノがおかれ、野外コンサートが催された。三々五々、地元の人々や観光客がベンチや芝生に腰を下し、1時間ほどショパンのピアノを楽しんでいた。音響がなっていないから、聞けたものではないという音楽通なる人の手厳しい意見もあったが、私にとっては、あれほど美しいショパンはない。ピアノが奏でられると、風がささめき、大きな木々が心地よさそうに揺れ、迦陵頻伽のごとき鳥が呼応する。犬好きのポーランド人のお供たちも静かに耳を傾けていた。そこにあるもの全てが妙なる調和をなし、ポーランドの大地、空、風がショパンの音楽の母体であると体感した。

 
 第三連では、ショパンの石膏のような白い手と象牙の鍵盤が渾然一体となり、ショパンは永遠の天才であるピグマリオンが大理石の胎内から鑿で取りだした像のようだと讃える。さらに第四連において、ノルヴィッドはショパンが奏でたものの中には、ペリクレス時代のギリシャ美術の「完璧な素朴さ(prostota doskonałości)」があると評す。ペリクレスは古代アテネの軍人・政治家であり、芸術活動のメセナであった。ペリクレス時代は、クラシック期のギリシャ美術の黄金期であり、ドイツの美術史家ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン(1717-1768)はその特徴を「高貴なる単純さと静かなる偉大さ」と要約している(『美術の歴史』H.ジャンソン、カウマン共著より)。ギリシャ・ローマ芸術に造詣が深いノルヴィッドが、ヴィンケルマンを学んでいたことは容易に想像できる。そして、ノルヴィッドは、ショパンの音楽の「完璧な素朴さ」を古代の徳が落葉松の田舎屋に入ってこう独り言ちたかのようと続ける。非常に難解な比喩だ。

 「わたしは天国に生まれ変わった
  そして扉は―――竪琴に
  小道は―――リボンになった
  青白い小麦をとおして見えるのは―――聖餅
  インマヌエルはすでに
  タボル山にいらっしゃる!」

 素朴なもの、単純なものが、ショパンの音楽によって価値あるものに変わり、ポーランドの素朴な民衆の調べなどが、最高の美しき存在へ変容して光り輝くことをノルヴィッドは述べているのではないだろうか。
 そして水かさを増していくノルヴィッドの思いが最高潮に達するのが第五連である。ショパンの音楽には、完全無欠の歴史の頂きから賛嘆の虹を通ってもたらされたポーランド、光り輝く絶頂期のポーランドが存在していると讃える。

(つづく)

(2016/09/08)

5.投げ落とされたピアノ(3)

 ~「ショパンのピアノ」(ツィプリアン・カミル・ノルヴィッド作)の一考察

 

 

 「ショパンのピアノ」後半第八連から、ノルヴィッドとショパンの魂が、1863年9月19日のワルシャワを俯瞰する。圧倒的な迫力をもって、9月の悲劇が私たちの眼前にあらわれる。

    Ⅷ
  ほら――― ご覧よ、フリデリック!―――ワルシャワだ
  燃えるように煌めく一つの星の下、
  異様にぎらぎらと輝くワルシャワ ――― ―――
  ―――ご覧、聖ヨハネ教会のオルガンだ、ご覧!君の故郷だ。
  あすこには―――あたりまえのように
  貴族たちの古い館が立ち並ぶ
  広場の灰色の石畳はもの言わず、
  ジグムント王の剣は雲の中。

    Ⅸ
  ご覧!・・・路地から路地へ
  コーカサスの馬たちが疾走する
  嵐の前の燕たちのように、
  連隊の前へと現れ出る
  百頭―――また百頭
  ―――大きな建物が炎に包まれ、鎮火したかと思えば、
  また燃え盛る――― ―――そしてほら―――壁際に
  銃の台尻で押しやられる
  服喪の寡婦たちの頭が見える―――
  そしてまた、煙でおぼろげにしか見えないが、
  回廊の柱の間から
  棺に似た家具のようなものが
  持ち上げられているのが見える ―――墜ちた―――墜ちた―――君のピアノだ!

    Ⅹ
  あのピアノが!・・・完全無欠の
  歴史の頂きから
  賛嘆の頌歌によってもたらされたポーランドを―――
  変身した車大工たちのポーランドを広く知らしめたピアノが、
  まさにそれが―――墜ちた―――御影石の石畳に!
  ―――そしてまさに、人間の気高い思想のように
   人々の怒りによって壊されている、
  あるいは―――はるか太古の
  昔から―――覚醒させる全てのものと同じように!
  そして―――ほら―――オルフェウスの身体と同じように、
  千の憤怒によってずたずたに引き裂かれている。
  誰もが「俺ではない!・・・
  俺ではない!」と叫喚、―――歯軋りする―――
          
        *
  だが君は?―――だが僕は?―――審判の歌を歌おう、
  こう呼ばわりながら。「喜べ、後の世の子孫よ!・・・
  もの言わぬ石たちが―――呻き、
  理想が―――石畳に達した――― ―――」

  
  
 ノルヴィッドは絶頂期のポーランドを「車大工たちが変身したポーランド」と表現しており、第五連にも登場する。これは19世紀ポーランドにおいて、強い王権によって国家統一されていた理想的な時代と考えられていたポーランド初代王朝のピアスト王朝のことであり、車大工がその創始者であるという伝説による。そのポーランドの最高の姿を奏でてきたショパンのピアノが、投げ落とされ石畳に叩きつけられ、人間の気高い思考のごとく、オルフェウスのごとく、怒りによってずたずたに引き裂かれたのだ。この悲劇をノルヴィッドは、理想が石畳に、すなわち地に達したと結ぶ。それは、民衆の調べを最高に美しきものに変容させたショパンの音楽が、地に叩きつけられるという未曽有の悲劇によって、いわばはじめて民衆の水準にまで届き、全ての心に届いて普遍なる存在に到達したということを意味しているのではないだろうか。

(2016/09/09)

 

6.稲穂の教え

 

 

 ショパンとその音楽の完全無欠性を謳いあげたノルヴィッドの「ショパンのピアノ」第七連に次のような一節がある。

  
 ――― 穂?・・・黄金の彗星のように熟したとき
 一陣の風がゆするやいなや、
 麦粒の雨がこぼれ、
 完璧さ自らがそれをまき散らす・・・

 懐かしさを覚える美しい景色である。心の原風景ともいえるだろうか。それは、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」を思い出させるからなのかもしれない。

 もう十年くらい前になるだろうか、安曇野を訪れたときのことだ。身体にのしかかるような東京の炎暑と違い、信州の夏は朗らかな透明感に満ちていた。穂波の中を車で走っていると、芳しい風が顔を打つ。それは稲穂の香りだった。まろやかな香ばしさが一瞬のうちに身体の隅々にまで駆け廻り、心の澱がさっと流れたような幸福感に包まれる。そして思わずつぶやいたのが、祖父の座右の銘だった。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」
 母方の祖父は、私が生まれる前から床につき、身体に麻痺が残っていたため、一日のほとんどを、ラジオを聞きながら寝て過ごしていた。何か用があるときは、
「おーい、おーい」
と大音聲で家人を呼び、私は子ども心にその声が怖く、あまり祖父の部屋に近づくことはなかった。会話も不自由であった祖父と、どんな言葉を交わしたのかさえおぼろげで、それが残念でならない。私が小学四年生の年の暮れに祖父は亡くなった。
 祖父は教師で、母や祖母の話によると、昔の父親像通りの厳しい人だったらしい。その祖父が常々口にしていたのが、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」であったという。
 信州生まれの祖父も稲穂の香りを感じ、豊穣の景色を目にしながら、この金言を両親や祖父母から教えられたのかもしれない。祖父と直接触れ合うことの少なかった私であるが、この稲穂の教えを祖父からの宝物として受け継いでいこうと心に刻んでいる。
 
 毎年、暮れになると祖父のお墓参りに出かける。師走の東京郊外の霊園は人もまばらで、冬木立と松の景が美しい。花と菓子を供え手を合わせると、手向けた一対の線香の束から勢いよく煙が立ち上り、灰がややしだれながら落ちていく。それはどこか稲穂の姿を思わせる。私は実りの状態にはほど遠いが、万物に対して頭を垂れて謙虚に精進し、大地にしっかりと根を張る生き方をせねばと思う。

 
 昨年の関東・東北豪雨で水没した土地に、頭を垂れた稲穂が波打つ様子がニュースで報じられていた。ここまでの想像を絶する御苦労を思うと感慨無量の景色だったが、稲作を断念せざるを得なかった農家が多いという。今年も次々と来襲する台風によって東北や北海道に甚大な被害がもたらされている。どうか穏やかな秋でありますように・・・ただただ祈るばかりである。

(2016/09/16)

 

7.シンボルスカの猫

 

 

 ポーランドの詩人ヴィスワヴァ・シンボルスカの代表作に、「空っぽなアパートの猫」という作品がある。突然主人を失った一匹の猫の悲しみを掬いあげた詩だ。空っぽなアパートに残された猫は、「まるで何も変わっていないようだ/でも変わっている」部屋の戸棚を覗きこみ、絨毯の下にも潜り、あとは寝て待つだけというほどに調べつくす。二度と戻らぬ主人を待つ猫の姿は痛切極まり、猫と長年暮らしている私は読むたびに涙が溢れてくる。夫を失った心情を重ねた詩人は、断言する。「死んでしまうなんて 猫に対してすることじゃない」。
 シンボルスカがノーベル文学賞を受賞した1996年、私はポーランドの古都クラクフでポーランド語を学んでいた。詩人が住む街に居合わせためぐりあわせに興奮し、小ぢんまりとした街のこと、偶然にお見かけすることもあるかもしれない、そんな期待を胸に歩いていたものだ。そしてシンボルスカの作品や、新聞に掲載されたノーベル賞記念講演を辞書と格闘しながら読んだことが甦る。それは20年前の悲しいくらい繊細な時間だった。
 当時、ポーランド語の家庭教師を抜けるように色が白く目の大きな女性にお願いしていた。家族がシンボルスカと親交があるということで、こんなことを話してくれた。
「「空っぽなアパートの猫」は、私の祖父が亡くなったときのことなのよ。」

 東欧の詩人が心を寄せた猫と身の上を同じくする猫が、ある日私を訪ねてきた。東日本大震災から間もなくして、我が家から歩いて三分ほどの近所の男性が出先で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。私はその男性と直接言葉を交わしたことはなかったが、訃報を人づてに聞き、あまりの命の儚さに衝撃を受けた。郷土史などの研究家で、父君が数年前に他界してからは、瀟洒な住まいに、数匹の野良出身の猫たちとともに暮らしていた。五十代後半位だったか。変わり者の風であったが、優しい人だったらしい。  
 「空っぽなアパートの猫」には、亡き主人にかわって、お皿にお魚をおいてくれる手もあった。しかし、男性の死後、家を片付けに来た人が猫嫌いで、猫たちは住まいを追われてしまったという。近所の人が心を砕いて、一匹は鎌倉にもらわれていったが、まもなく交通事故にあって死んでしまったという。
 その年の夏頃から、背中がみかん色でお腹が真っ白な雄猫が、我が家の庭先に現れるようになった。当時、我が家には六匹の雌猫たちがいたため、急によその猫、しかも雄猫を受け入れるのは容易なことではない。しかし、何か決心をしたような顔つきで、私を見つめるその子を放っておくことはできなかった。それが、亡くなった男性の家の猫だと知ってはなおさらだった。

 実は、男性の父君T氏にはご恩がある。我が家の毛がふさふさした黒い子猫が突然姿を消してしまったことがある。一ヶ月ほど経って諦めかけていた頃、駅前のショッピングセンターの入り口で、見知らぬ六十がらみの男が我が家の猫に縄をつけて連れているのを偶然発見したのである。結果的に子猫は取り戻したのだが、すんなりとはいかず、明らかに盗まれたにもかかわらず、金銭を要求される事態となった。我が家は女所帯であるため、地域の世話役的な存在であったT氏に仲介を頼み、事なきを得たのだった。
 こうした縁を頼って、みかん色の「シンボルスカの猫」は我が家を選んだのだろう。ご恩返しをさせてもらうときが巡ってきたと思った。片耳がリボンの先のように切れているため、「ミミオ」と名付けた。初めの二カ月ほどは、狭い私の部屋に隔離して世話をしていたが、そのうち、自分の身体の半分くらいの雌猫たちに怒られながらも、折り合いをつけて暮らすようになった。
 二日ほど私が泊りがけで出かけたことがあったが、それを境に、ミミオは私から離れなくなった。トイレまで追ってくることもあった。外出するために身支度をしていると、不安げに泣き続ける。また大好きな人が帰ってこなくなる恐怖にとらわれるのだろう。私はミミオに毎日こう約束した。
「おばちゃんはミミオのそばにずっといるからね。もう何も心配することはないのよ。」
そんな時、ミミオは私の手に顔を何度もすり寄せ、私はシンボルスカの詩を思う。動物との約束は重い。相手が人間でないからこそ、決して反故にはできない責任がある。それは自然界との約束だからだ。

 
 今年の春のお彼岸に、突然ミミオとの別れが訪れた。最期は腎臓を患ってひどく痩せてしまった。思っていたよりもミミオは年をとっており、苦労してきたのかもしれない。朝の四時半、私の掌に微かにでも確かに伝わっていた心臓の鼓動が止まり、あとかたもなくミミオはいなくなってしまった。そして「空っぽなアパートの猫」の一節そのままに、あるべきものがない空っぽに慣れていくしかなかった。

  
   「もういつもの時刻には
    何かが始まらなくなり
    起こるべき何かが
    もう起こらなくなる
    誰かがここにずっといたのに
    それから突然消え失せ
    いつまでも頑固にいなくなったまま」

 5年間、ただひたすら私を守ってくれた小さな命に、恥ずかしくない生き方をしなければと思う。

(引用詩は、『終わりと始まり』ヴィスワヴァ・シンボルスカ著、沼野充義訳・解説、未知谷に納められている「空っぽなアパートの猫」より)

(2016/10/01)

 

8.琥珀色の旅

 

 

 秋が深まると琥珀を身につけたくなる。豊穣の景色を閉じ込めたような琥珀ほど、秋の空、空気に映るものはない。日本では、琥珀は年を重ねた婦人のアクセサリーという印象があり、琥珀自体の種類もデザインもかなり限られたものしか目にしない。だが、琥珀の産地であるポーランドでは、実に多種多様な琥珀と出会うことができ、古色蒼然としたイメージは一新される。色はアカシヤの蜂蜜のように薄いものから、橙色、ウイスキー色、ガーネットと見紛うような赤、かたや薄緑、不透明な卵黄色、白い石のようなものまで多彩である。さらに昆虫や樹の皮、空気の粒などが閉じ込められている場合もあり、一つとして同じ景色の琥珀は見られない。地中で過ごした時の長さや土の性質など、様々な偶然の魔法による奇跡、それが琥珀である。
 ポーランドでは琥珀の細工は銀が中心であり、指輪、ピアス、首飾り、ブレスレットなどざっくりとした斬新なデザインが目を引く。琥珀には繊細な細工や金は似合わない。銀の奥ゆかしさが琥珀の色合いを引き立て、大胆なデザインが琥珀一つ一つの物語を演出する。
 
 二十年ほど前、ポーランド語のサマースクールに通うため、首都ワルシャワでの生活が始まった。最初の遠出の旅に、私は迷うことなく北の港町グダニスクを選んだ。ハンザ同盟に名を連ね、十八世紀には東欧最大の都市であったこの地は、一度ならず歴史の大転換を導く戦場となっている。駅前から路線バスで北に三十分ほどの岬ヴェステルプラッテから第二次世界大戦が始まり、ワレサ率いる「連帯」による民主化運動のうねりの際には、世界中がこの町に注目した。当時、中学生だった私も異常な興奮をもってワレサを応援していたことを思い出す。以後、ポーランドは一つの炎として私の中に存在していた。
 グダニスクはかつてポーランドの南北を貫いた「琥珀の道」の北の玄関であり、現在でもポーランド国内で質、量ともに最高の琥珀が扱われている。大戦で廃墟と化しながらも復元されて蘇った重厚な水辺の街並みに、琥珀は実によく映る。中世を感じさせる小路マリアツカ通りで見つけたのが、アンティーク風のペンダントヘッドだった。五百円玉大の丸い琥珀をいぶし銀による透かし唐草模様がしっかりと取り巻く。蜂蜜色の琥珀の中央部にはエベレストを思わせる景色があり、上部には薄く靄がかかっている。山をも凌ぐ風を遥かに感じるような、壮大な風景が閉じ込められたこの一品が、私にとって初めての琥珀となった。

 この旅で忘れえぬ出来事がある。グダニスクから北へ十五キロに位置するグディニヤへ向かう鈍行列車でのことだ。夏の午後の陽の中で、四人がけの席で向かいに座っている老婦人が静かに眠っていた。半分開いた窓からは、夏草を渡ってきた心地よい風が通り、通路を挟んではす向かいの席の婦人は編み物をしていた。その懐かしい空気感に、異国にいることの緊張が久しぶりにほぐれ、私は心地よい安堵感に包まれていた。
 向かいの老婦人の半袖のブラウスから出た腕の内側にふと目がいく。細いその腕の内側には数桁の青ざめた数字が刻まれていた。氷塊に心臓を打たれたような衝撃が走り、私はすぐに車窓へ目を移した。
 アウシュヴィツなどの強制収容所では、送り込まれた人々の衣服、髪、名前など、個人に帰属するもの全てが奪われ、代わりに数字が刺青されたという。かつてポーランドの大地には、アウシュヴィッツのほかにも、同様の収容所が各地に点在していた。
 書物の中でも映画の中のワンシーンでもない。それはあまりに穏やかな時間の陽だまりに突きつけられた紛れもない現実であり、突如、眼前に姿を現した生身の戦争だった。この小柄な老婦人が歩んできた道とは如何なるものだったのか。ほどなく列車は北の港町に到着し、まだ眠る老婦人に一礼して、私はその場を後にした。
 列車を降りて、グディニヤで何を見たのか、ほとんど記憶に残っていない。ただ、いつまでも心臓が早鳴りして、かなり足早に歩いていたことだけは覚えている。

(2016/10/11)

 

 

9.心の木

 

 

 ユゼフ・ボフダン・ザレスキ(Józef Bohdan Zaleski 1802-1886)は、ウクライナのキエフ近郊で生まれたポーランド人詩人である。1820年にワルシャワへ出て後、1830年に勃発した十一月蜂起に身を投じ、1832年にフランスで亡命してから亡くなるまで半世紀以上を同地で過ごした。実際にウクライナで過ごした日々は、その八十四年にわたる生涯の四分の一にも満たないのだが、ザレスキの詩には、ほぼ全編にウクライナの調べが流れており、豊饒な自然と民を歌い上げ、ウクライナを讃えている。ウクライナのいわば心臓部で過ごした幼年期の記憶がザレスキの作品の基盤をなしており、ザレスキにとってのウクライナは、永遠の理想郷であった。
 ザレスキ六十五歳の作品に、「墳墓の樫」(Dąb mogilny)がある。 ザレスキにとって血を分けた兄弟の存在であった故郷の一本の樫に寄せた詩だ。その後半部分を引用してみよう。


朝な夕な常におまえとともにあり、
若木のまだ葉をつけていない枝であった我々は
二人とも陰をなすまでに成長した
樫と詩人を人々は「兄弟」と呼んだ。

しかし間もなく、おお!不意に突如
雹が音を立てて降ってきたのだ。
私は隠れ家から追い払われた
運命、我がポーランドの運命。

そのときから私は世界に出た そしてより遠くへ!遠くへ!
激流となって駆けよ、
兄弟が一つになる前に!
雷鳴よ、轟け!嵐よ、荒れ狂え!

同い年の二人 血を分けた二人、
我々には雷の刻印がある。
葉のない切り株 弦のないゲンシル
今や朽木となり、髄だけになったけれども。

血を分けた二人 同い年の二人、
一面の雲の中で果てよう。
もう一度雷鳴轟けば
我々は跡形もなくなる だが歌の中に生きる!
                             (訳:小川万海子)
 
 老境のザレスキは、遥かウクライナの兄弟の姿を思い、二人でともに歌を紡いだ楽しき日々に心は飛翔する。だが溌剌とした輝きの時代はポーランドの運命という雹の嵐ににわかに打ち破られてしまう。二人の預言者詩人を雷が打つ。もう髄のみを残すような身となり、もう一度雷鳴轟けば二人は跡形も消えてなくなるだろう。しかしザレスキは声高らかに締めくくる。二人は歌の中に永遠の命を得るのだ。歌は口から口へと歌い継がれ、武器も権力も時も全てを凌駕する。

 誰にでも心通わせる木があるだろう。通勤、買い物でいつも通る道、いつも目にする風景に、心を慰めてくれる木がないだろうか。ふと無意識に言葉を交わしている木がないだろうか。長谷川潔は、パリ近郊のいつもの散歩道で、ある日一本の樹木から「ボン・ジュール!」と話しかけられる。そして、「その樹が人間の目鼻だちとおなじように意味をもっていることに気づいた。(・・・)そのとき以来、私の絵は変わった。」(『京都国立近代美術館所蔵 長谷川潔作品集』光村推古書院より)
 
 今秋、我が家のお向かいのヒマラヤスギが切り倒された。お向かいは、空き家同然のアパートだが、昔は別荘だったらしく、その名残で白梅、山茶花などの木々や池を配した庭がある。しかし、人の手が入らないため、草が伸び放題に生い茂り、何がしかの蔓が石垣を席巻して、果ては道を這う有様だった。住宅街の他界ともいえるその庭に、ヒマラヤスギの巨木二本が勇壮な姿を誇っていた。台風など大風の日には、荒ぶる風雨をどこか楽しむかのように巨体を揺らし、雪化粧すれば、昔のクリスマスカードに見た風景を思わせる懐かしい温かさを発していた。その深々とした緑の雄姿に、我が家はいつも見守られていた。
 十月のある日、造園業者が「○○アパートのヒマラヤスギ伐採のお知らせ」というチラシを我が家に置いていった。二本のうちの一本は石垣沿いに立っているため、倒木して何か被害が出ることを考えれば、伐採は仕方のないことである。しかし一つの時代が終わってしまうといういたたまれない寂しさはどうしようもなかった。
 伐採の朝、私の部屋の窓からヒマラヤスギに手を合わせた。
「これまで見守ってくださってありがとうございました。」
マントのような形をなす枝々が次々と落とされ、ヒマラヤスギは何も言わずやせ細っていった。我が身が刃物で刻まれるような痛みを覚え、最期のときまではとても耐えきれず私は家を離れた。
 その日から、急に空が広くなり、景色が妙に明るくなった。巨木に隠されていたアパートの隣家の屋根が陽を受けてギラギラ輝いている。もう二カ月以上経ったが、そのぽっかりとした明るさに慣れないでいる。カーテンを開け閉めしながら、食事をしながら、私の眼はまだそこにあるはずのヒマラヤスギを探してしまう。
 
 年の瀬の晴れた空、冬木立ちにはしっかりと新芽、花芽がつき、レース模様をなしている。これから寒さは力を増し、冬の底に向かっていくが、冬木立ちを見上げれば、希望に満ちている。散歩道で樹と会話した長谷川潔はこう記している。
「ラジオの受信機にしても、出来のよしあしはあろうとも、ともかく調節すれば音が聞こえてくる。それとおなじように、波長を合わせることによって聞こえてくる万物の声というものがあるのだ。」(『京都国立近代美術館所蔵 長谷川潔作品集』光村推古書院より)私はこの言葉がとても好きだ。万物の声を受け取れるよう、五感を磨き、自然をしっかりと感じ、気持ち新たに精進していこうと冬木立ちに誓った。

(2016/12/30)

アンカー 1
アンカー 2
アンカー 3
アンカー 4
アンカー 5
アンカー 6
アンカー 7
アンカー 8
アンカー 9
アンカー 10
bottom of page